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不思議な一日

「誰を採用すべきか迷ったら、運の良い人を入れなさい」と松下幸之助氏。
兵隊にはまず体力や技術が求められるが、将を目指す人材には「運」が加味されなければならない。

運があるかないかは、直接その人に聞いてみればよい、という松下さんだが、中には、「さぁ、どうでしょう」と黙して語らない幸運児もいる。今日はそんな奇跡の幸運児をご紹介したい。

「名将の条件は、ひたすらに運である」と司馬遼太郎氏。この言葉は、『街道をゆく』シリーズの42巻「三浦半島記」(朝日文庫)262ページに出てくる。

司馬が、”運の持ち主”と称えるその人物とは木村昌福(きむらまさとみ)海軍少将である。

木村は太平洋戦争において、敗色濃厚のなか、数少ない明るい話題を日本国民に提供した「キスカ島の奇跡」を為し遂げた人物である。

では、司馬の『街道をゆく』をもとにして、キスカ島の奇跡について簡潔に紹介しよう。

太平洋戦争の開戦後、大本営がとった作戦は、太平洋に浮かぶ大小の島々を押さえ、兵力を拡散分駐させることだった。
軍事上の戦略拠点を押さえたい、という意味と、20日分しかない備蓄が尽きる前に石油を確保してしまいたい、という台所事情もあった。

そうした意味では、南方のフィリピンにいた米軍、マレー半島とシンガポール要塞にいた英軍などを叩いた緒戦では、作戦が成功しつつあるかに見えた。

だが、同時に大本営は、北海道とアラスカ半島の中間地点にある「アッツ島」と「キスカ島」への進駐も決める。
こちらには石油がなく、のちに、作戦上の理由がよく分からないとされる方面だ。

アッツ島とキスカ島は南方の島々よりも更に自然環境が厳しかった。

年中濃霧に閉ざされ、強風が吹き荒れ、樹木もない不毛な島々だったという。
無血上陸を果たしたのが開戦翌年の昭和17年6月。それぞれの島に千余名が上陸。このとき、まだ明確な守備作戦がなく、制海権も制空権ももたない孤島上陸作戦であったとされる。

やがてアッツ島とキスカ島に守備部隊が配備され、アッツ2600名、キスカ5200名という陣容になるものの、やがて南方作戦が破綻し、敗色が濃厚となりはじめた。

アッツとキスカに対する補給もとだえがちになり、ついに昭和18年5月、米軍はアッツ島を襲い、島の形を変えるほど砲爆撃を加え、陸戦部隊を上陸させて日本軍を文字どおり全滅した。

大本営は、見守るしかなかったという。

「次はキスカ島だ」と誰もが思った。
いそぎ、大本営は5200名の撤退作戦をたてた。その作戦を誰にやらせるか、白羽の矢が立ったのが木村昌福少将だった。

この時、木村は重傷を負っていて、横須賀の海軍病院に入院していた。
けが人といえども将に任じねばならなかった。

制海権も制空権も米軍がにぎり、レーダーが監視する中、小さな軍艦で5000人超の兵を一挙に、かつ速やかに救出し終えてしまうという至難の作戦だった。

そして昭和18年7月7日、濃霧をついて千島列島から長駆キスカ島に近づいた木村隊は、何をおもったか再び千島列島にもどっている。

この時、めずらしくキスカ島付近が晴れていて、気象学上も霧がわく条件がなかったというのが木村の決断理由だった。

後になって分かるが、この時、作戦を決行していれば日本軍は米軍から袋だたきにあっていたという。レーダーが木村の動きを逐一、傍受していたのだ。

7月26日、木村隊は二度目の救出作戦に向かった。

この時もアメリカ艦隊は木村隊の動きをレーダーでキャッチしていた。
そして射程距離に近づき、戦艦・巡洋艦で木村艦隊にむかって重点爆撃をおこなった。
玉が尽きるまで砲撃を加え、やがてレーダーの目標物消失をもって作戦を終了した。
だが、その目標物は幻影だった。木村艦隊はそこにはいなかったのだ。

砲弾などを補給するため、7月29日の一日だけ南方の補給基地に向かった米軍艦隊。
木村艦隊はそうした事情を知らず、偶然その一日にキスカ島の湾内にすべりこんだ。待ち受ける兵士5200名を55分間で撤収し終え、任務を完了した。

アメリカ側はキスカ島が無人になっていることには長く気づかなかったようだ。その後も島を封鎖し、砲爆撃をくりかえし、8月14日、34,000の部隊が上陸し、無人と気づく。

アッツ島は全滅し、キスカ島は全員救出された。
キスカの兵士を乗せた艦がアッツ島沖を通ったとき、島からバンザイの声が湧くのを聞いたという人が何人かいた。
こうした話を好まないという司馬が、「この話ばかりは信じたい」と書いている。
誰かがまだ、アッツ島にいたと考えられなくもない。

司馬をして「不思議な一日」とよぶキスカ救出劇。
そういう星のめぐりをもった人を大切にしたい。

だがそれは、パッと見の外見や顔つきや雰囲気だけでは分からないもので、その人の行動と結果の関係をよくよく観察していくことによって理解が得られるものだと思う。

後日談がある。

終戦後、この手柄話を木村は家族にも話していなかった。文藝春秋にこの記事が載ったのを見て、一番驚いたのが木村の家族だったという。

小さい頃からおとなしくて無口だったという木村だが、彼もラストサムライの一人なのかもしれない。