夏の高校野球は佐賀北高校の優勝で幕が閉じた。お見事だった。
「お前、そんなにうまかったっけ?」と佐賀北高校の百崎監督がビックリするほど、選手たちは一試合ごとにうまくなっていった。
百崎監督自身は高校生時代、外野手で主将。だが、甲子園の経験はなく、県大会ベスト4止まり。大学進学後は野球から離れていた。
監督自身が超一流選手でなかったゆえか、埋もれがちな選手を引き上げるのがうまい。
選手をその気にさせる手腕が花ひらき、「がばいミラクル旋風」で、ついに甲子園で頂点に立った。
佐賀北高校は昨年、佐賀県大会で初戦敗退している。
そんなチームが翌年、甲子園に行けること自体がミラクルだ。全国区レベルの突出した選手がいるわけではない。当然、選手たちは自分の実力をフルに発揮しなければ甲子園では勝てないと知っていたはずだ。
いや、練習通りの実力が出せるだけでは不十分で、練習以上の力、つまり、火事場のばか力が必要だった。甲子園はそれが可能な舞台だし、佐賀北高校は一試合ごとに勝利の女神に好かれていった。
そこで、提案。
あなたの会社を甲子園にしよう。あなたの会社が女神から好まれるようにしよう。
こんな会社も女神好きする好例ではなかろうか。
新潟県の山奈合金鋳造株式会社(仮名)は社員数21名。
山奈英紀(仮名、33才)は、義父(55才、妻の父)が経営する会社に入って三年目。お互いに梅酒と囲碁が大好きという趣味の一致もあって、初対面から気が合った。
いつもいつも「おやっさん!」と実父以上に慕ってきたその義父が最近、急逝した。脳梗塞だった。
社内は騒然とした。
まだ55才で働き盛りだった義父は、後継者対策らしいことは何一つしてきていなかったのだ。実印がどこにあるすらパートの経理社員しか知らないほどだ。
社内を見渡せば、おじさんもいるし、義理の弟も働いている。だが、「社長を継ぐのは専務の自分しかいないだろう」と覚悟を固めた英紀は、哀しみに沈むいとまもなく義父の通夜や葬儀を取り仕切っていった。お通夜の席で親族会議をひらき、次期社長は英紀ということが正式に決まった。
そして、いよいよ出棺というとき、親族を代表してあいさつすることになった英紀は、このあいさつが新社長としての自分の最初の正念場だと思った。
英紀は寝ないでスピーチの準備をした。棺のまえで正座し、便せん一冊をまるごと使い切るほどに原稿を書いては消し、書いては破り、書いては書き直した。
生前は人望が厚かった義父のこと、参列者には取引先や金融機関など多数が集まってくれた。花輪の数だって半端じゃない。100本はある。
次期社長候補者はどんな人物であり、どんな挨拶をするのか、みなが注目していた。
英紀は一歩前で進み出て、まず参列者へのお礼から始まって亡き父の功績をたたえ、死を哀しみ、社員一同がますます結束してよい結果を出すことが亡父へのとむらいである、と締めた。
メモを見るまでもないほどのシンプルなスピーチだった。たしかに上手なスピーチではあったが、「可もなし不可もなし」の挨拶と誰しもが思った次の瞬間、英紀は内ポケットから便せんを取り出し、ゴホンと咳払いした。
「親族代表としてのご挨拶につづき、山奈合金鋳造株式会社の新・代表取締役社長として決意と基本方針を申し述べます」
と会社の理念やビジョンを改めて発表した。
その内容は、義父が元気だったころから「ああしたい、こうしたい、こうなったらいいですね」などと梅酒を酌み交わしながら語り合ったものだった。
さらに、とっておきの締めがあった。
あえて、分刻みの進行が求められるセレモニーホールを使わなかったのには訳がある。
社員20名が英紀の左右に居並んで、「おやっさんの意思を受け継いで、自分はこんな仕事を通しておやっさんに恩返しをしたい」とか、「前社長から言われたあの言葉を自分の人生の信条としてこれからもがんばってゆきたい」などの挨拶を一人ずつ行ったのだ。
それは、合計一時間にも及ぶ亡父への送辞であり、通り一遍の挨拶と違ってかえって参列者の胸を打った。
「山奈合金は大丈夫だ」と誰しもが思ったことだろう。
決めるべき時に、決める。それがリーダーの仕事だ。
英紀は葬儀というセレモニーを形式で終わらせるのが嫌だった。心から義父を愛していたがゆえに、義父に喜ばれる最善の方策をとったまでだ。
そして、この葬儀の瞬間、新社長・英紀体制が正式に固まった。
最高の葬儀は、最高の船出にもなった。