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感じる心

ミーンミンミンミーン・・・、夏全開。

あたり一面、まぶしいまでのまっ黄色に染まったヒマワリ畑、入道雲が浮かぶ青い空。
そんな光景をみて、「ああ、夏だ!」と感じるのは私だけではないはず。
じゃあ、なぜセミやヒマワリや入道雲をみて「夏」と感じるのかというと、知識と体験を通してそのように学習したから。それはひとつの条件反射でもある。

セミやヒマワリだろうが入道雲だろうが、はたまた、夏という季節だろうが、そうしたものに実体はない。実体はすべて「空」だ。

ヒマワリをみてヒマワリと認識する心がヒマワリをみている。自分の五感を通してソレをソレと認識する心そのものが実体であると般若心経は説く。

これを「心眼」といい、自分の意識の奥底にある真の意識がこの世を見ているのだ。
それはとりもなおさず、目に見える様々なソレらも自らの心そのものであるということだ。

もしあなたが、「なにか変だなぁ」「どうも嫌な感じがする」と思ったら、そう感じる理由がなにかあるはずだ。心が実体なのだから。

私の場合、高校時代は砂をかむように空虚な三年間だった。少なくともその当時は、そう思えた。
せっかく第一志望の高校に入れたのに、この空しさは一体なんだろう。
楽しくもうれしくもないのだ。みんなが入りたがる県下有数の学校なのに。

くり返すが、学校が悪いのでもないし、学友が悪いのでもない。もちろん先生が悪いわけでもないし、自分も悪くない。
自分と学校との関わりの持ち方がうまくいかなかったのだ。

当時の私はこんなだった。

高校に初登校した日のこと。まだお互いに顔見知りが少ないせいか緊張している。担任の先生の訓話が始まったころ、学習机の横にぶら下げておいた私の学生帽が床に落ちた。

横にいたY君がそれを拾い上げ、「落ちましたよ」という目でほほえみかけてくれた。

「あ、ありがとう」

と言いながらも私は彼を警戒していた。

「なんて油断できない顔したヤツだ。こいつもあいつも自分のライバルになるんだ」と周囲を見回した。

なぜだが、その瞬間のできごとを私はハッキリ覚えている。

そんな緊張の初日を終えて、友だちもできないまま四月が終わろうとしていたある朝、自転車登校の最中に意識をなくし、河へ転落した。

救急車で病院へかつぎこまれ、結局、原因不明の高熱で二週間入院した。そんな私の前に待っていたのは、きびしい現実。

退院翌日から学校へ行ったが、授業に着いていけなくなった。そんなある日、宿題をやっていなかった私を数学の先生が「蛍雪時代」でなぐった。
初めて味わう劣等感と屈辱感。一気に学業が遅れだし、勉強の気力をすべてなくした。
生まれながらに持っていた社交性や冗談グセがみるみるなくなっていくのを感じた。

だが、学校へは通った。部活のサッカーに燃えた。いや、燃えたかったというべきか。練習はきつかったが、放課後だけは思いっきり青春することができた。

意識は脳内だけにあらず。脳の外、つまり身体や山川草木すべてが自分の一部(第八アーラヤ識)だということを最近になって知るのだが、この当時、私はどうすれば良かったのだろう。

今となってみれば、
・高校に入ってどうしたいかをすぐに目標設定すべきだった
・友だちを見つけていろんなことを話すべきだった
・親や先生に相談すべきだった

とか分かるが、その時はその時で真剣でそんなことは分かっていたはずだ。

あれから35年たった今では、自分の感じる心を大切にしようと思い、フィーリングがよいか否かを感じるようにしている。
挑戦はしなければならないが、苦しくなる方向にまでは進んでならないと自分を戒めている。