これから先、中国の経済や政治がどのようになってゆくのかはわからない。楽観論もあれば悲観論もある。
どちらかというと、中国にも友人が多いせいで「うまくいってほしい」と願っている私だが、長期的には危惧する点もある
そのひとつに、中国では経営者の志や理念が日本ほどは問われていないように見える点だ。
「儲けたものが勝ち!」というシンプルな原則が働いているようで、仕事を極めるとか、追求していくという姿が日本ほどは見受けられないように思うのだ。
そのあらわれの一つが、「この道○年」というベテラン経営者の少なさだ。
もちろん、市場経済の歴史が浅いせいもあるが、どうやら経営者の発想が根本的に違うようで、コンピュータ業界から飲食業に、小売業者がサウナに、という具合に比較的簡単に商売替えしていく経営者が多い。
だが、果たして我々は中国の経営者だけを揶揄できるだろうか。
日本でも、福沢諭吉や渋沢栄一など日本型資本主義の原型を作った人物たちの武士道的な経営思想が、ある時期までは色濃く残っていたように思う。
福沢諭吉のあの有名なことば、
世の中で、1番楽しく立派な事は、一生を貫く仕事を持つことである
世の中で、1番みじめな事は、教養のないことである
世の中で、1番淋しい事は、仕事がないことである
世の中で、1番みにくい事は、他人の生活をうらやむ事である
世の中で、1番尊い事は、人のために奉仕して決して恩に着せない事である
世の中で、1番美しい事は、すべてのものに愛情を持つ事である
世の中で、1番悲しい事は、うそをつく事である
を知っていてもいなくても、それが世間の常識だったのだ。
ところが、時代が変わり始めた。
バブル以前とバブル以後、昭和と平成、20世紀と21世紀、インターネット以前とインターネット以後という具合に、経営者の世代交代と共に日本的経営のそうした美徳までもが葬り去られようとしている。
コツコツと本業を極めていく、コツコツと哲学や理念を実践するという姿勢はいつの時代でも色あせることがあってはならない。
吉田松陰は、「人々が四書五経を学んでも善の善なる境地に達することができないのは、『熟』という一字を欠いているからだ、と指摘する。
松陰いわく『熟』とは、口で何度も読み、心で深く考え、思索しても熟さないならば行動する。行動してさらに考え、さらに読む。そうした作業を繰り返すことによって到達する世界が『熟』なのだ、と。
なにを『熟』すのか。強いては、なにを読むか、なにを考えるか、何を行動するか。それを決めるのはあなただが、熟すための行為は学ばねばならない。