イチロー選手を見ていると、松下村塾の吉田松陰さんを思い出す。
数少ない松陰さんの肖像画が、どこかイチロー選手の風貌と似ていなくもないし、目的に向かってストイック(禁欲的)に自己管理するところや、多少の放言癖があるところも似ているのだ。
司馬遼太郎の小説『世に棲む日々』にこんな場面がある。
思春期のある時期、書見台にむかって本を読んでいた松陰。ふと性衝動におそわれるが、さっと小刀を取り出し、自らの股のあたりを切りつけ、鬱血した血をしぼり出す。懐紙でそれをぬぐい取り、何ごともなかったように読書を続ける、という場面だ。
煩悩にすぐやっつけられる自分とくらべて、なんという人だ、という思いが強く印象に残っている。
どうやら松陰さんは、煩悩への対処法を若くして身につけていたようだ。
イチロー選手の煩悩対処法は知らないが、人間なのだから間違いなく煩悩はあるはず。
その話題は後にゆずるとして、まずは彼の放言癖についてみてみよう。
彼に対して”放言”というのは失礼かもしれないが、今から20年近く前にこんなエピソードがある。
「今度入ってきた “もやし” みたいな奴は、宇宙人だ」と、まだ少年のおもかげが残る鈴木一朗青年をはじめて見た中村監督が、保子夫人に言った。
それもそのはず、愛工大名電高校の野球部新入部員でありながら、ベテラン・中村監督を前にして、「センター返しのヒットなら、いつでも打てます」と豪語するような選手は、イチローの前にも後にもいない。
「ほお~、すごいな。だったらその通りにやってくれ」と監督に言われ、その目の前で、フリーバッティングを行い7割以上をセンター前に打ち返した。
「宇宙人だ」と監督が唸ったのも不思議ではない。
「限りなく10割に近いバッティングをする」と宣言した高校三年の夏の愛知県予選では打率7割5分を記録している。
こうした放言癖というか、自分を追いつめるために強気の発言をするイチロー選手だが、誰ひとり、彼のことをほら吹きと言う人はいない。
実績でそれを証明し続けてきたからだ。
「自分に対して、力で勝負しようという投手がいなくなった。皆、ボール球を振らせて喜んでいるんですからね」と日本球界を卒業し、メジャーに挑戦。
彼にとってはメジャーも挑戦の場所ではなく、闘いの場所だったようだ。渡米後も快調に放言癖は続く。
「ストライク3回見られる今のルールでは僕を抑える術はない」 と言い放った年にメジャーの年間ヒット本数記録を塗り替えた。
「ヒットにできなそうな球は瞬時にわざと打球をつまらせて内野安打にしてるんだ」とまで言っている。
その他にも、
・なんでもできちゃうんですよ。野球に関しては
・バッターボックス内は打者の領域だから、ここに球を投げないでほしいね
・もう究極っていうとこまできたし、これから何をすればいいかわからない
・自分より上手いと思う投手はいない
・他人の意見が、自分を超えることはない
・審判の言う事を真に受けてはならない
などとも言っている。
ある意味で、すでに生きる伝説と化したイチロー選手だが、松陰さんともども、大目的のためには、個人的な欲望は後回しにできるという強さとテクニックを持っている点で共通しているように思える。
イチロー選手はかつて親しい記者に、
・「さすがに性欲には勝てない」
・「女子高生の紺色のハイソックスいいですね~、 におい嗅ぎたいっすよ」
と冗談めかして言っている。今のイチロー選手からは想像しづらい発言だが、人としてこういう発言をしてくれている点に私は感謝したい。
最近の新聞社会面では、性衝動に対処できずに人生を誤った事件が多く報じられている。
評論家の中には、事件の犯人に対して、特殊な性癖の持ち主として生まれてきたことを気の毒がる人もいるが、とんでもない甘やかしだろう。
松陰さんやイチロー選手の煩悩克服の姿勢を見習うべきだと思うのだ。
松陰さんは教育者、イチロー選手は野球選手と、道は違えど修行者としてのストイックな姿勢は酷似している。
人としての本能の部分では、誰だって似た欲望を抱えていながらも、それを乗り越える大きな目的を持っていたということと、誘惑に勝つ方法や刹那的な衝動を抑える術だってマスターしていることが大切なのだ。
煩悩に打ち克つのが立派なのではない。
煩悩を乗り越えざるを得ないような大目的をもっていることが立派なのだと思う。