明治5年に銀行制度が整い、国立銀行条例が公布された。この条例に基づいて明治12年までに全国で153の国立銀行が設立された。この国立銀行は、設立出願の許可順に付された番号により命名されたという。
最初に出願許可されたのが東京の第一国立銀行で、最後に出願許可されたのが京都の第百五十三国立銀行。
114番目に出願許可されたのが香川県高松市の第百十四国立銀行で、今日の百十四銀行である。今では数少なくなったナンバーバンクの一つだ。
百十四銀行 http://www.114bank.co.jp/link/index.html
その百十四銀行さんが主催する経営者勉強会が「114たまも会」。
昨日は、その例会で講演した。ふだんの例会より多くの関心が集まったようで、130名超の経営者が集まってくれた。
・理念をベースにした指針ある経営のやり方
・Wish Listとマニフェストで四半期目標管理をする
・思想を維持する「熱狂」という状態の作り方
について80分間語った。
高松の経営者は感度が高い。時間が進むごとに会場全体がひとつになるような一体感が得られ、これこそライブの醍醐味だと実感できる講演だった。主催者や幹事の方々に感謝申し上げたい。
昨日の高知に続いて今日は高松について述べておきたい。
日本三大水城(みずき)といわれる高松城のお堀にはチヌ(クロダイ)やマダイ、ボラ、スズキなどの海魚が泳いでいる。それもそのはず、お堀に海水を取り込んでいるお城だからだ。
特急「しまんと2号」に乗って高知から2時間、午前11時に高松駅到着。半年ぶりの香川だ。
高松には高校の修学旅行で栗林公園と屋島観光に来て以来なので36年ぶりの訪問となる。
平日の昼間だというのに講演会幹事の上村さんが「高松の魅力をお伝えしたくて・・・」と駅に出迎えてくださった。彼と親しいタクシー運転手の中条さんも一緒だ。
大の「うどん通」という中条さんが近くへ来たら必ずここへ来るという馬渕うどんでぶっかけを2玉。栗林公園を散策中、茶店で串団子(これがデカイ)を一本、その後、讃岐うどんの名店・山田屋で釜揚げうどん定食を完食。わずか二時間の間に大量のうどんをあまり噛まずに喉を通していったが、腹にもたれないのが麺の魅力。
最後に見せていただいたのが屋島。屋島の山頂からは高松市内と瀬戸内の島々が一望できる。桃太郎が鬼退治にきた鬼ヶ島(正式名称は女木島(めぎじま))がすぐ目の前にあり、鬼たちが住んでいた洞窟もある。
那須与一(なすのよいち)伝説
源平の合戦ある夕暮れ、沖の平家から小舟が一艘岸辺に近づいてくる。
なんと陸の源氏側に向かって手招きしているではないか。
「この扇を弓で射落としてみよ」、脇には女官が舳先に立って扇を掲げている。
「我が軍であれを射落とせる者はいないか」と義経。
すると、後藤兵衛実基という家臣が「弓の名人は沢山おりますが、下野の国の住人で、那須の太郎資高が子に、与一宗隆という者が居ります。小柄ではありますが、空飛ぶ鳥を三つに二つには必ず射落とす程の腕前でございます」と答えた。
早速、那須の与一宗隆公が義経の前に呼び出し、「あの扇の真ん中を射て、平家に見物させてやれ。」と命じた。
まだ二十前後の若者だった与一は、射落とす自信もなく辞退するが、重ねての厳命に意を決して、明神近くの大岩に祈り(いのり岩)馬にまたがって、海の中に進みいる。
与一が弓を放った場所と、平家の姫が立っていた場所が今も残っているが距離的には意外に近い。60メートルほどだろうか。
しかし、弓道競技の距離よりは長い。
東京の渋谷駅交番からハチ公像までの距離だと思えた。
香川県の高校生がこの距離で弓を放ち、三回目に見事扇子を射抜いたというが、源平当時、馬にまたがった与一の相手は波に揺れる船上にいる。姫が手にする扇子まで数十メートル、上下左右に船が揺れ、なおかつ風を計算に入れねばならない。
戦を中断して与一の試技に視線があつまる。緊張が頂点に達したとき与一が放ったが矢が放物線を描き、「パシッ!」と音をたてて扇子に的中した瞬間、敵味方関係なく拍手が起こったというが分かる気がする。
写真 http://www.k2.dion.ne.jp/~t7d7/yashimakosenzyo.html
時間となりました。ここまで。