長沢社長(仮名)47才。家業の土木業を継いで7年めになる。
本来なら兄が家業を継ぐはずだったが、修業先の外国で結婚し、現地で起業してしまった。それは父にとっても弟の長沢にとっても、よもやの出来事だった。さらにその一年後、今度は父が急逝した。
葬儀のとき、長沢の母が「おまえがお父さんのあとを継いでくれないかい」と長沢に頼みこんだ。
大手ガス会社で人事畑をあゆんでいた長沢だったが、自分に白羽の矢が立つことはこの時点ですでに覚悟していたという。
長沢は引き受けた。だが、父のまねはできないと思っていた。
創業者でもある父は、職人たちを魅了してやまない人間味あふれる親分肌であり、同時にMBAこそ取得していないものの、語学堪能なエリートでもあった。正直、そんな偉大な父のまねをしたくとも出来ない。
「自分は自分の器以上のことは出来ない。やれることをやるだけだ」
長沢は真摯に働き、努力し、幹部や社員と意見を交えた。だが、最初の1~2年は勉強だけに明け暮れたようだ。
社長ってなんだ?経営ってなんだ?
社長業の孤独も味わった。
長沢が「粗利益を改善して20%を目指しましょう」とか、「受注価格も決まらずに仕事を受けるのはやめましょう」などと方針をだしても、誰一人それを本気に実行するものがいなかった。
長沢の思いは空回りした。
正直言って長沢も建築土木の世界は好きではなかった。とくに、職人たちの「同じ釜のメシを喰ってきた人間だけを大切にする」というような文化にとまどいを覚え、社内の人間関係にとけ込めなかった。
できるものなら逃げたかったが、それが許される状況ではない。
幸い肝臓が丈夫な長沢は、積極的に社員を居酒屋に誘い出し、連日酒を飲ませながら意見を交換した。
一年ほどたったころ、若手リーダー格の江藤(30才)が長沢の人柄と方針を認めるようになった。その江藤がオピニオンリーダーとなり、若手の多くが長沢の方針を支持するようになっていった。
社長就任4年目から始めた新卒学生の採用は、最初のうちこそ誰一人採用できなかったが、去年と今年、2名ずつ採用できるようになった。
今では長沢の経営に懐疑的だった不満分子は一人もいない。先代社長に仕えていた古参部下も数人残っているが、みな二代目長沢をリーダーとして認めている。
長沢は語る。
「この業界のことをまったく知らない人間に社長がつとまるかどうか不安だったが、今思えば、業界の常識をしらないのが幸いしています。社内に無理難題を言えるのも、自分が現場を知らないから。大切なことは逃げないことです。ファイティングポーズをとり続けることです。酒に逃げない、遊びに逃げない、趣味に逃げない、権力に逃げない。いつも一番いやで面倒なことに立ち向かうようにしてきたつもりです。会社経営のあるべき姿は業界が違えど変わらないもので、私は同業他社よりも異業界や他国の経営事例、それに歴史のほうが参考になると思っています。父のまねはできませんが、自分流の社長にはなれると思います。こんな私ができたのだから、中学生になる我が息子だったらもっと出来るはず。キーワードは、『自分になることから逃げない』ことだと子ども達に言っています」