会社の不祥事に対して経営責任者が、「悪いのは部下のあいつだ。
オレは何も知らないし、むしろオレも被害者だ」などと声高に訴えたところで誰も信用しない。むしろ、おのれの無能と不徳をPRしているようなものである。
そういえば、神戸で買った新聞にこんなコラムをみつけた。
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<ホリエモン>検察側の被告人質問で、肩書に最高経営責任者を使っていた理由を問われ「かっこいいよねって感じ、はやってたから」。
何が起きようと、ちっとも変わらぬ人だ。
(毎日新聞11月18日号夕刊 「近時片々」より)
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法的に下される罰則を軽減しようとの魂胆かもしれないが、株主や社員、後輩経営者たちのためにも、もっと道義的責任の重さを自覚した発言をしてもらいたいと願う。
それは、自身の未来のためでもあるはずだ。
「彼らは、高い目標を掲げ、それらの目標が実現されることを求める。だれが正しいかではなく、何が正しいかだけを考える。自分自身、頭がよいにもかかわらず、頭のよさよりも真摯さを重視する。つまるところ、この資質に欠ける者は、いかに人好きで、人助けがうまく、人づきあいがよく、あるいはまた、いかに有能で頭がよくとも、組織にとっては危険な存在であり、経営管理者および紳士として、不適格と判断すべきである」(『現代の経営(下)ドラッカー著』)
「真摯さを何よりも重視する」
1954年からドラッカーが言っている経営管理者の資質であり、今日、ますます経営者の真摯さが問われているのだ。
ドラッカーの指摘はさらにこう続く。
仕事の真摯さが必要なのはいかなる職業でも同じ。だが、それらのほとんどは仕事上の真摯さにすぎない。だが、経営管理者であるということは、親であり教師であるということに近い。そのような場合、仕事上の真摯さだけでは不十分であり、人間としての真摯さこそ決定的に重要である、というのだ。
真摯さとは、「まじめでひたむきなこと」である。
しかも真摯さは、学習によって修得できるものではなく、金銭で買えるものでもなく、誰かに補ってもらえるものでもない。どうしても自ら身につけていなければならないものだという。
真摯さとは、単なるハードワーカーではない。真面目人間のことでもないし、誠実な人のことでもない。
真摯さとは、パーソナリティのことではなく、目的めざした一貫性ある行動のことである。
真摯さとは器用さとは正反対に、不器用になることである。もちろん、手段に対しては柔軟なのだが、目的の実現に対しては不退転の決意と情熱を保持する。
真摯さとは部下に対する愛情と一貫性でもある。
自分を信じるのと同じように部下を信じる。部下の顕在能力だけでなく潜在能力も信じる。失敗や不出来は一時的なものであり、上達と向上のための学習と考える。
真摯なリーダーのもとでは奇跡のような勝利と幸運が連発するが、それは決して偶然の産物ではなく、真摯さが産んだ必然なのだ。