未分類

真壁の平四郎

今日は昨日の続きを書く予定だったが、急遽変更し「真壁の平四郎」(まかべのへいしろう)について書きたいと思う。

講談でもおなじみの話だそうだが、昨日あるところで初めてこの逸話を聞いて感動した。
ことの詳細は各自お調べいただくとして、記憶を頼りに書いてみたい。

本能寺で信長が討たれた天正年間。そんな騒ぎも遠くのこと、東北の小藩主・真壁の時幹(ときもと)の下僕、平四郎のお話。

ある冬、凍てつくような寒い雪の日のこと、平四郎は真壁時幹(ときもと)のお伴をして侍屋敷に出向いた。
よほど困難な案件だったのだろうか、なかなか時幹は戻ってこない。
東北独特のしばれるような寒さの中で、「時幹様のお履物が凍てついてしまったら大変だ。お帰り道にお困りになる」とばかり、身を切る寒さの中で平四郎は、時幹の下駄を自分の懐の奥深くに仕舞いこむ。
ただでさえ震えるように寒い玄関口で、我が体温を主人の履物に送り、温め通す平四郎であった。

何どきかが過ぎ、「郡主殿、お玄関、御出まし~!」の相図で、素早く温かい履物を玄関口にお揃えする平四郎。手柄を誇るつもりはなかったが、少なくとも喜んでほしかったことだろう。

下駄に冷え切った足をすっと入れる時幹。その瞬間、鋭敏な時幹は足裏につたわる暖かさに気づく。それと同時に時幹は、「おのれ平四郎、わが下駄を尻にでも敷くとはけしからん。これへ参れ!」と命じた。

全く思いもかけぬことに、時幹は平四郎の労をねぎらうどころか、「私の下駄を腰掛にしよって、今の今まで横着にも休憩していたに違いあるまい」と曲解し、「こんな汚れた下駄が履けるものか」と、下駄を手に取りあげ、平四郎の頭上めがけて有無を言わせず何回となく打ちすえた。
平四郎の頭は割れ裂け、周囲の雪面に赤い鮮血が散らばった。噴出する血を手で抑えもせず、平四郎は頭を垂れてなされるがまま立ちつくすほかない。

「おのれトキモト、この恨み晴らさずにはおられまい。きっと、きっと、きっとこの平四郎に向かって平伏させてやる」と腹を固める平四郎。

時幹のもとを飛び出し、平四郎が目指した場所はなんと中国(宋の時代)。

主人に対して単純な報復をしても始まらない。平伏させ、平謝りさせる方法をいろいろと考えた結果、平四郎は僧として大成する道を選んだ。
立派な僧侶になれば、殿様といえども頭を下げさせることができる。

中国で高名な径山(けいざん)の無準禅師のもとを訪ねた平四郎。
中国語がさっぱり分からない。おまけに仏教用語もわからない。ダブルで分からないので、皆目見当もつかない中での修行スタートが始まった。

無準禅師が書いてくれた「丁」の文字を連日ながめながら座禅と修行の生活に入る平四郎。

「丁」ってなんだ????
わからない、いくら考えてもわからない。やがて、わからないこともわからなくなるほど、わからなくなっていった。やがて考えることをやめ、ひたすら目の前のことに一意専心するようになる。

時は移り、九年たったある日、ついに平四郎は大悟し、悟りを極める。無準禅師から法身性才禅師と名づけられるほど、堂々たる禅師になっていたのだ。

勇躍帰国し、大殿様・伊達政宗候の帰依を得て瑞巌円福寺を再興させた法身性才禅師。おみごと!平四郎。

ある日、政宗候とともに瑞巌円福寺に招きを受けた小藩・真壁の郡主時幹は、床に飾ってある下駄をみてけげんな表情を見せる。

その様子を見て、法身性才禅師こと平四郎は、

「遠く径山に登りて帰りて開く円福の大道場、
法身を透得すれば無一物。元是れ真壁の平四郎」

と唄うかのように叫ぶ。

「あっ!」とおどろく元・主人の時幹。

「あの平四郎・・・」
「さよう、あの真壁の平四郎なり。あの下駄殴打を今すぐここで謝罪されたし」
などと野暮なことは言わない。

平四郎が時幹に言った言葉は意外にもこんなものだった。

「ご主人様のあの下駄のお陰で、今日瑞巌円福寺が再興を果たせたのでございます」と当時の郡主に頭を下げ、心からなる御礼を申しのべたというのだ。

「主人を平伏させる」という復讐心で中国に渡った平四郎だが、道を究める過程で復讐心が感謝心にスイッチされたのだろう。

中国で「丁」の文字をながめるうちに、丁稚(でっち)奉公の「丁」、甲、乙、丙、丁の「丁」であることに気づいたのかもしれない。

「元是れ真壁の平四郎」

大成したのち、誰かにこんなことを言ってみたい。しかし、そんなことより、恨みの感情も感謝に変える達人の生き方から学びたいものである。