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クラーク博士

先週末は札幌非凡会と翌日の支笏湖旅行。ともに意義深い思い出に残るイベントになった。
さらには、一人帰路についた昨日も忘れがたい一日になった。

千歳空港に向かう途中、羊ヶ丘(本当に羊が放牧されている)に立ち寄った。場内に入ったとたん、タクシーの運転手さんが気をきかせてCDをかけてくれた。さだまさしのあの名曲(あ~あ、あああああ~あ)「北の国から」の主題歌だ。

緑の地平線を見ながらゆったり流れるようなスピードで走る。
「北の国から」を見たことはない私だが、なぜだかジーンとこみ上げるものがある。あと1分あれば、そして運転手さんが話しかけなければ、きっと泣いていた。

駐車場が見えた。先週毛を刈り取ったばかりの羊がたくさんいる。
ジンギスカン料理もあったが、さすがにこの場所で食べるのはかわいそうな気がした。

あ、これは・・これだ! クラーク博士のブロンズ像。

「BOYS BE ANBICIOUS」
この言葉に触発されて多くの若者が育っていった。たった9ヶ月の滞在で。

そこで、ふとある疑問がわき運転手さんに訊いてみることにした。

「ところでどうして一年とか半年ではなくて9ヶ月なのですか?」

すると、相当物識りと思える彼はこんな話しを聞かせてくれた。
「もともとマサチューセッツ農科大学の学長に41才の若さで就任したクラーク博士は当時アメリカだけでなく日本でも高名な方だった。そこで北海道開拓使・黒田清隆ら日本側の熱烈な要請をおこない、教師兼教頭として札幌農学校(現・北海道大学)に赴任して下さったのです。明治9年のことです。ちなみに、クラーク博士はこのとき50才で、農学以外に、化学や英語も教えられました。当時の札幌はわずか900戸、3,000人の人口だったと言います。北海道の大部分がまだアイヌ人で、日本の若者は大きな希望と新しい知識に飢えていたものと思われます」

「へぇ!運転手さん、詳しいですねえ」と言うと

「仕事ですから。それにもう30年ほど前の話ですが北海道大学にあこがれて受験したものです。ものの見事に撃沈されましたが、今でもフラッと北大のキャンパスを歩くことがあるんですよ。なんともいえなく好きでねぇ、あのキャンパスが。キャンパスの魅力だけで日本中から学生を集められる大学でもあるのですよ」

気をよくした運転手さんは、知識が炸裂したように話しだす。

「北大のキャンパスにはクラーク博士の胸像があり、ここ羊ヶ丘には立像があるのですが、クラーク博士と日本側とは実は一年契約だったのです。それは、日米の往復時間も含めて一年ということで、船旅しかない時代でしたからその往復時間を差し引くと9ヶ月となるのです。
当時の教え子たちは、クラーク先生を港まで歩いてお送りしようとしたのですが、あまりに遠いので、『このあたりで良い』とお別れした場所が、島松駅でした。「駅」とは言っても馬車が往来する停車場のようなものでした。今の島松駅 (千歳線)から少し離れたところに、その史跡が残されています。
その別れの際に残した言葉が『BOYS. BE ANBICIOUS!』なのです。

博士が直接教えた生徒 (第1期生)は、わずか11人だったという。
内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など錚々たる人材が入ってきたのは翌・第2期生なのだが、1期生たちから熱っぽく、クラーク博士の生き方や考え方が教えられ、浸透されていったのだろう。

ほんものの教育は浸透していくものだ。

<明日は、ススキノの古書店で見つけた文庫本について書いてみたい>