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真実の瞬間

●ある時、友人Sと温泉へ行った。その温泉郷を代表する老舗の名旅館である。
温泉業界で有名な “温泉教授” が付けるランキングでも常に上位に顔を出すことから「いつかは行きたい」と思っていた。それがようやく叶ったわけである。

●だが、結果は残念なものだった。

帰りの列車で我々二人は、その名旅館をメッタ斬りにした。行ってはいけない温泉旅館ランキングの堂々上位に発表したいほどだが、二つの “事件” 以外は皆、合格点だった。それほどひどい旅館ではないはずだ。

●普通のお客が普通に過ごしていればランキング上位だろうな、とは思う。しかし、我々の若干だけイレギュラーなリクエストの前で旅館のサービスシステムはあえなく破綻し、ついに撃沈した。

●「真実の瞬間」(モーメント・オブ・トゥルース)という本があるが、顧客はこまかなことに感激したり不満を感じたりする。こまかいサービスができていないと客は不満がつのってくるのだ。
“温泉教授”を喜ばすことはできても、一般客に通用しないようでは客数が増えない。
この旅館の場合、「風呂」「食事」「建物」「サービスシステム」のバランスがちぐはぐだった。であれば、一番低いところにあわせて値段を付けなければならない。

●行きの列車が動きだし、まず乾杯した我々。
「ところでどんな旅館に行くの?」とS。そういえば彼にはまだ旅館の名前しか告げていなかった。

「一泊二食で2万円。海がないからそちらの料理は期待できないが、何よりもお湯がいい。それに、無料の外湯巡りも有名で、それぞれが泉質の異なる源泉が、かけ流しらしい」と私。
「そいつはいい。すべての外湯に浸りたい」とSのボルテージが早くも高まっていく。

●早めに宿に着いた。女性スタッフが笑顔で「お部屋のご準備ができていますのでどうぞ」と気持ちよく案内してくれた。

部屋もかなり広く、中庭が見下ろせて景色もよい。
「設備も部屋も上出来ですねぇ」とS。

●さっそく名物の内湯に浸かった。ここはさらに風情があった。

「あつ湯」(44度)、「ぬる湯」(42度)、「腰湯」(40度)、「露天風呂」(40度)と、内湯だけでも充分堪能できる。まだ時間が早いせいか、他の客は一人しか入ってこなかった。

●部屋で休憩したあと、丹前を羽織って外湯巡りにでかけることにした。フロント女性はさきほどの人とは別人の年配者だったが、愛想良く外湯の歩き方を教えてくれた。
部屋のバスタオルとタオルを貸し出し用のエコバッグに入れて下駄でブラブラそぞろ歩く。日が沈むとかなり冷えるので、移動中に体が冷える。そのせいで風呂に何度も入ることができて、気持ちがいい。

●約2時間で主だった外湯を堪能しつくした我々は宿にもどってきた。
たくさんの風呂に浸かって身体をふいたせいで、バスタオルが湿っていた。外気に触れて冷たく重い。
このあとも風呂に浸かるのでバスタオルを交換してもらおうとした。

そこで一度目の”事件”が起きた。

●「ただいま、いいお湯でしたよ。気持ちよかった」
「お帰りなさいませ、それは良かったですね。お食事のご準備もそろそろ整いますよ」
「ありがとう。あ、そうそう、このバスタオルを変えて頂けませんか」

すると女性の身体が一瞬にして固まったようになり「えっ?」と言った。顔は笑っているが硬直している。

「タオルが冷たくなっちゃったんで、変えてもらえますか」と私は同じことを言った。

しばらく間があって、「ちょっと、それは…」と言う。それは出来ない、というのだ。

てっきり私の方がとんでもない理不尽なことを言っているのではないかと一瞬反省したが、Sが助っ人として補足してくれた。
「ほら、こんなに重い」とバスタオルをバッグから取り出して見せている。
フロントの奥にいたアルバイト風の若い女性が近寄ってきて我々にこう言った。

「お部屋でタオルは乾きますよ」

“なに言ってんだろう、たかがタオルで”と思った。もう一度ゆっくりと、「お願いですからバスタオルを交換してください」と私。

するとフロント女性が「一枚ですか?」と聞いた。ようやく意味が伝わったようだが、今度は完全に笑顔が消えていた。それに、二人で頼んでいながらなぜ一枚なんだ。

「二枚です」と答えつつも私は、これほど気が利かない対応をされたのはいつ以来だろうと記憶をたどった。それでも思い出せないほど、気が利かない対応である。ようやく受け入れてくれたものの、たぶん、こっちが “ひどい客” に思われているのだろう。

●「ここでお待ち下さい」とフロントの前で待たされた。数分後、二つのバスタオルを片手にもち、歩きながらアルバイト女性がやってきた。Sの方に手を伸ばし、「お待たせしました」と歩きながら渡し、そのまま足を止めずに向こうに去っていった。

●エレベーターの中で我々は無言だった。怒りというより悲しみの方だった。
部屋に入ってSが、「ビジネスホテルでももっとキチンとしてますね」と言う。私はこの旅館を予約した責任上、新しいバスタオルを見つめながら「だよね」というのがやっとだった。

●そんなことがあったせいで、夕食会場に向かう足が重い。
食事どころ(個室)で食事用スタッフがサービスしてくれた。素朴な料理だったが不足はなかった。担当者の会話も楽しく雰囲気に充分満足できる夕食時間だった。

生ビールの大ジョッキをおかわりしながら私は、「Sさん、さっきのバスタオル事件はたまたまですよ。やはりこの宿はすばらしいんだ」と自分に言い聞かせるように言った。

「だったらいいですね」

●翌日は午前中から仕事があったので、朝食時間を早めてもらうことにした。
この”早立ち”が二度目の事件を引き起こすことになるのだが、この時には知るよしもない。

<明日につづく>