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結界と置き菓子

「オフィスにお菓子を置きませんか」と千趣会さんが置き菓子の提案に来られた。
うちにはすでに「オフィスグリコ」が入っていて、結構利用している。
でも時々欲しいお菓子が切れてしまうので、スタッフは、「千趣会さんのも置いてほしい」と熱望する。

たしかに置き菓子は、「ちょっと小腹がすいた」、「少し甘いものがほしい」という時に助かる。わざわざコンビニに行かなくてもいいので効率的かもしれない。
置き菓子で仕事がはかどるのなら、お菓子代は全部会社持ちにしてもいいが、はたして、聖なる職場にお菓子があるなど不謹慎ではないかと自問している。

比叡山や高野山など修行道場の山門に入ると、特有の気が充満していて身が引き締まる。
ある日、そんな山門近くに立っていたら、「ロッコンショウジョウ、六根清浄、六根清浄、六根清浄・・・」と唱えながら行者が山道を登ってきた。仏教のおまじないだ。

「六根」とは眼、耳、鼻、舌、身、意(げん、に、び、ぜつ、しん、い)の六器官のことをいう。
これらの器官が清らかになることにより、対象に執着の心を持たないことを願って唱える呪文である。煩悩が執着を生み、執着が真理を悟る心をくもらせるからだ。

たとえば、お昼にそばを食べてうまかったとする。

「このお蕎麦、とてもおいしい」と思う気持ちは自然であり、もちろん許される。しかし、「またこのそばを食べに来たい」というのは我欲であり、執着の心なのだ。修行者はその執着から離れるために修行する。

会社経営も同様で、「利益がたくさん出てうれしかった」というのは素直で自然な気持ちだ。
しかし、「もっとたくさん利益を出して世間をアッと言わせたい」と思うのは自利であり我欲であって、うまくいかなくなるだろう。
だから仏教では、自利ではなく利他の気持ちを開発できるようなトレーニングメニュー「六波羅蜜」や「八正道」を用意しているのだ。

空海は高野山を修業の場とするにあたり、「結界」という名の境界線を設定した。
その後、明治五年に女人禁制が解かれるまで千年以上にわたって結界内に女人が入れなかった。

女人禁制の理由は諸説ある。
男尊女卑思想もあるが、仏教指導者の一部には鎌倉時代の昔から女人禁制に批判的な人も少なくなかったようで、それだけが結界の理由ではない。

念のために
★「女人禁制」 → http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=1586

いずれにしろ、結界内には実の母親も妻も許嫁も我が娘も入ることができない。そのため、七つある高野山の登り口には女性のための参籠所が設けられ「女人堂」と名付けられた。
今の「女人堂」は、そのなかで唯一現存する建物である。

結界に囲まれた修行の場は聖域である。

ひるがえって現在の私たちの住まいや職場に「聖域」がどの程度残されているだろうか。
「この場所に来ると神仏と会話することができる」というほどの聖域を確保したいものだ。たとえ、一畳ほどのスペースでも構わない。

ピカソの聖域は彼のアトリエだったようで、「回教徒が寺院に入るとき靴を脱ぐように、私は仕事中、ドアの外に肉体を置いてくる」と語っている。

あなたの結界を定めてみようではないか。