昨日のつづき。
七世紀から八世紀にかけて弘忍(ぐにん)禅師のもとには七百人を超える弟子達が集まっていた。ある日、師は師偈(しいげ、作文)でもって後継者を決めると言いだした。誰もが認める後継者候補は、神秀上座(じんしゅう じょうざ)という学識豊富で人望が厚い男だった。
多くの修行僧は相談して、自分たちは応募せず、神秀上座の作品を待とうということになった。ところが神秀上座が提出した作品は弘忍禅師に評価されなかった。
ところが、弘忍禅師の寺の米つき部屋で働いていた慧能(えのう)という若者がこんな詩偈を発表した。
『菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ 本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん』
悟りにはもとより樹はなく、澄んだ鏡もまた台ではない。本来、からりとしてなにもない無一物であるのに、どこに塵や埃があろうか、という意味だ。
700人いる修行僧たちはみな、慧能の詩偈に驚いた。どうして米つき部屋で働く寺男がこんに奥深い悟りの境地に至っているのか、というわけだ。一番驚いたのは弘忍(ぐにん)禅師だった。こんな小僧が誰よりも本性に目覚めていることに仰天し、慧能が殺されてしまうことをおそれた。そこで、「駄目だ、こんな詩偈。それを皆が賞賛するとはいったいどうしたことか?」とあえて本心とは別のことを言って回った。
「やっぱりあれでは駄目なんだ」周囲にそう思わせておいて師は、深夜に慧能を部屋に呼んだ。そして「金剛経」をマンツーマンで説き始めると、にわかに慧能は悟りの境地にいたった。
弘忍(ぐにん)禅師は、慧能にこう言った。「お前を私のあとの六代目の祖師とする。この袈裟(けさ)と鉄鉢を授けよう。あまねく迷える人々をたすけなさい。袈裟は達磨大師以来、代々うけついできたものである」
さらにこう続けた。
「昔から法を受けついだ者は身が危うい。私が案内するからここから逃げだそう」と真夜中に南方に向かって逃げ出した。
その後、二ヶ月にわたって逃げ続け、その間、数百人が後を追いかけて慧能をつけ狙った。ただ一人、恵明という男が追いついた。慧能は衣鉢を返そうとしたが恵明はそれを受け取らなかった。そしてこう言った。「私は袈裟はいりません。欲しいのは法(教え)です」。慧能がその場で法を説くと、恵明は悟りに達した。その後、慧能は 5年ほど山中に潜伏した。
その後、神秀上座は北宗(ほくしゅう)禅の創始者になった。慧能は第六祖(南宗禅)となって多くの弟子を導き、曹洞宗も臨済宗もこの南宗禅を由来にしている。
「本来無一物」(ほんらいむいちもつ)という有名な禅語はこのときのものだ
そもそも、悟りもなければ煩悩もない。そうした囚われる物など何もない、というそぎ落とし切った考え方を無学の若者が持っていたこと。しかもその男が禅宗の祖師になっていることに禅の教えの奥深さを思い知るのである。