昨日号では、ある建築家が学生時代に鼻をへし折られ、打ちのめされた話をご紹介した。今日は科学者である。
ある若い自然科学の研究者が先輩に聞かれた。「きみは今まで植物の発育を観察したことがあるかい」「はい、あります」「どんな観察をしたの」「子どものころに大根の発芽を毎日決まった時間に観察し、絵日記にまとめました。先生に随分ほめられた思い出があります」「なるほど、君にとって観察の思い出といえばそれかね」「はい、科学好きになったという点で忘れられない思い出です」
そのあと、先輩は衝撃的なことを言った。「子どもの観察とはいえ、そんなことでもって”観察”という言葉を使っていては、これから大した科学者になれないぞ」「はい?」若い科学者は先輩の言っている意味が理解できなかった。
「とおっしゃいますと?」と聞き返した。先輩はこう言った。「僕も子どものころ、かぼちゃの発芽を観察した。そのときは、僕自身がかぼちゃに成りきって本当に昼夜を徹して便所にも行かずにずっとそれを観察し続けた。その対象に成りきらないと本当の観察などできないのじゃないだろうか」「対象に成りきるのですか」「そう、対象に成りきることが観察なんだ。君がやったことは観測であって、観察なんかじゃない」
若い科学者は自分の観察姿勢を恥じたという。
表面的なデータをたくさん集めて対象を理解した気になっていた。先輩は、自分を押し殺して対象に成りきり見守った。この態度の違いが学者としての深みの違いではないだろうか。「先輩のこのときの言葉が僕の一生を決めた」と学者は後に言っている。
あれから半世紀経つ。
若い科学者はいま、仏教学者になっている。極めて著名な学者である。科学者として大根やかぼちゃに成りきる前に、まず自分自身に成りきろうとして仏教に進んだのだろう。
今度は若い経営者の話である。
若い社長は経営計画書を作った。講座に通って一生懸命に作った。見よう見まねで経営計画発表会もやった。先輩経営者を招待し、発表会も無事終わって満足げだった。先輩経営者も褒めてくれた。ところがその年は惨憺たる業績に終わり、経営計画書があってもなくても何も変わらないと幹部社員たちに言われた。社長も気が短いたちだったので、経営計画書作りなんて意味があるのだろうか、と不審に思い始めた。
一年後、今度は先輩経営者が経営計画発表会に招待してくれた。開始数分で若い社長は「あ、負けた」と恥じ入る思いがした。経営計画書が社員主導でつくられ、発表会も社員が準備して計画的に運営されていたのだ。先輩社長はその様子を微笑ましそうに見守っているだけだったのだ。
経営計画書が社長のものではなく、みんなのものになっていたのだ。上には上があると思い、経営計画書づくりに疑いをもつのをやめた。いま、その社長は地域の経営者団体で経営計画書作り運動の推進役を買って出ている。
昨日の建築家、今日の科学者(宗教家)に経営者、いずれもガツーンとくる体験、打ちのめされるような思いがバネとなってその後を変えた。
私たちは、そうした経験から遠ざかっていないだろうか。打ちのめしてくれる対象は人間に求めるもよし、書物に求めるもよし、大自然に求めるもよし、いずにせよ、得がたい貴重な体験である。