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続・塙 保己一物語

空海は親の期待を裏切って大学を中退し、仏門に入った。そして、ひとりで四国や近畿で山間修行を始めた。親や親戚の期待を一身にあつめたエリート官僚候補生が立身出世の道を放棄し、身の危険をさらす厳しい修行の旅に出たのである。親の悲しみと心配はいかばかりか。

当時空海が執筆した本のなかで登場人物にこんなセリフを言わせている。このセリフは空海の心境そのものではないだろうか。

「親は老いて寿命が近づいている。そして私の出世を楽しみに待っている。しかも自分の兄二人はすでに亡くなったというのに、頑固で愚か者の自分には恩返しするすべもない。進退きわまって、おろおろするばかりだ」

後のカリスマ密教家・空海を知っている私たちにとって、青年空海の迷いは実に人間くさい。

そして空海は書物のなかで中国の『礼記』の一節を引用している。「小孝は力を用い、中孝は労を用い、大孝はとぼしからず」というものだ。

自分の身ひとつあれば親に孝行できるが、大孝は仁徳をもって世の人に尽くす必要がある。つまり親に直接の孝行はできないが、それでも親への恩返しになるはずだと自分をなぐさめているのだ。

私たちは誰に尽くそうしているのだろう。そしてどのように尽くそうと計画しているのだろう。どちらにしても、自分の命を轟々と燃やす対象を見つける必要がある。それがないと、俗世の海でおぼれてしまう可能性が高い。

さて塙 保己一物語、昨日のつづき。

学問で身を立てる決心をした以上は天神様(菅原道真公)を信仰しようと、京都の北野天満宮を詣り、地元の天神様にも毎日願掛けに通うことにした保己一。そして般若心経を毎日 100 回(約 4時間)唱え、決心をくじけさせないようにした。

そして 34歳のとき、『群書類従』の編集・発行にとりかかる決意をする。これは日本古代から江戸初期までの 1,000年以上にわたって、多くの人が書き残した 1,273種類の文献・書物を 25分類した文献集である。そうしたものが必要だと誰もが認めるが、あまりに難事業で誰も手を出さない出版事業だった。当時の出版事情を考えると、国家的規模の文化大事業といえた。それをひとりで着手し、やがて多くの協力を得、76歳で亡くなるまでこれに打ちこんだ。そして、666冊からなる『群書類従』を出版し、その版木 17,244枚を完成させた。版木に職人の手で一文字ずつ彫るための費用など、すべて彼が捻出した。

寒村の百姓のせがれで盲人の保己一。金も名誉も門閥も学閥もなにもない。ひらがな・漢字すら知らないし、文字を読むこともできなかった。そうした大きなハンデを背負いながら国学者になり、大事業をなし遂げた保己一。その名声は内外に広まった。まず、水戸黄門の水戸藩では当時、『大日本史』という歴史書の編さんに追われていた。ところが、内容の検証作業で水戸藩の学者のなかでも意見が対立し、まとまらない。そこで保己一が招かれると、瞬時に意見の対立が収束し、誰ひとり保己一の意見に反対する者があらわれなかったという。

昭和 12年、来日したヘレンケラー女史は「私は塙 保己一を人生の手本として生きてきました」と保己一の史料館を訪れている。そして、保己一のブロンズ像をいとおしそうになでたという。

あまり親孝行できなかった保己一だろうが、海の向こうで困難に直面している人に勇気と希望を与える働きをしたという事実は消えることがない。

★群書類従
http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=4009
★塙 保己一史料館
http://www.onkogakkai.com/