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恥を知る

三角大福(三木、角栄、大平、福田)戦争で「ポスト佐藤栄作」を競っていた昭和47年。グァム島で横井庄一さんが発見された。

上官の投降命令が伝達されず、米軍から(実際はグァム島民から)逃げ延び続けた。自分勝手の判断で投降しようものなら軍法違反だ。終戦の情報は米軍機がばらまいたチラシで知っていた。だが、あくまで個人判断はできない。そして戦後27年も経ってから漁民に見つかり、日本に帰国することとなった。その横井さんの第一声は、「恥ずかしながら・・・」だった。

「恥ずかしながら・・・」しばらく聞いていない言葉だ。

恥を知るということは、人間の徳目にとってとても大切なもののようだ。なぜなら、恥を知ることは反省や謙虚さ、それに次の成長の原動力であり、これを失うとそこで人間は止まる。中国古典の「孟子」においても、恥のことを非常に強調しているのはそのためだ。

「孟子曰く、恥の人に於けるや、大なり。機変の巧を為す者は、恥を用うる所なし。人に若かざるを恥じずんば、何ぞ人に若くことか之れあらんや」
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孟子は言う。「羞恥心は人間にとって重大な徳目である。場当たり主義でごまかしと小細工を弄する人間は羞恥心がないものである。自分の徳行や能力が人に及ばないのを恥ずかしく思わないような人間が、どうして人並みになれようか」
・・・
(「孟子」安岡正篤著 MOKU出版 より)


ところが、人間は年がかさむにつれて恥や謙虚さを失っていく。若いころは、あれだけ恥ずかしそうにバスタオルに身を包んで水着に着替えていた人が、なぜ脱衣所で堂々と全裸になれるのか。どうして人前で(しかも知らない人の)大声で歌い踊るカラオケスナックが流行し、電車の中でお化粧ができるのか。それは、恥を失ってきた証拠以外のなにものでもない。

水着やカラオケ程度ならまだしも、あなたの仕事に直結することで恥を忘れてはならない。「私には恥があるから大丈夫」とあなたは言い切れるだろうか。
次のような自己判断で、同じような過ちや悪習間をくり返していないだろうか。

・誰も見ていないから
・みんなやっているから
・みんなに比べればマシだから
・これだけやっているのだから、ちょっとぐらい
・誰にも迷惑をかけていないから

これらの言葉がたくさん出始めたら「恥」を失いつつあるとみてよい。

私たちは自らの良心に悖(もと)るようなことをくり返してはならない。それは、やがて精神のゆるみや堕落につながる。すなおな気持ちで、自分自身の良心に恥じない行為をしよう。