がんばれ社長!「勝ち抜く経営者」の絶対法則・・志経営のすすめ
というのが、4/21(水)発売の新刊タイトルである。個人の志と会社の経営理念とが、きっちりリンクした生き方、経営の手法を手引きした会心作となった。つい先ほど、脱稿したばかりの余韻と完全徹夜明けの睡魔と闘いながらこの原稿を書いている。
編集者歴15年をほこるオーエス出版社の酒井編集長が、「これほど期限をオーバーした原稿はない」と嘆いておられた。
「頼むからもう一週間発売をずらして下さい」と懇願してみたが、かなわぬ夢だったようだ。
さて、志と理念を中心に据えた経営というテーマ、かなり歯ごたえがあり、まだ道半ばという気もする。だが、現時点での経験や知識を総動員して書いた。その一節に次のような箇所がある。
志とは、すなわち「士の心」なのである
今では絶版となった旺文社文庫の『志とは何か』(奈良本辰也著)のなかで、作者は次のようなことを述べている。志というものを考える際の手引きがここにあると考え、要約してお届けしたい。
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つまり、志は士の心ということである。士の心は、士の理想だといってもよい。さて、その士であるが、これは古代の中国では士大夫(したいふ)の階層をさし、当然にこの国の知識人を代表したものだ。彼らは、まず知識人でなければならなかった。
(中略)
人間には、ただに現実のなかでうまく生きようとする心があるだけではない。一つの基準に照らして、いかに立派に生きるかという、あるいはいかに立派に死ねるかという強い意識が働く。その一つの基準というのが武士道であった。武士道はもともと戦場のなかで生まれた武士の死生観であったが、近世に入ると、それに儒者の道徳が入って、きびしい自己規制の原理となっていた。
山鹿素行(やまがそこう)の『士道』によれば、人の心には「義」と「利」がある。義とは、自らをふりかえってやましいところなく、快い状態を言う。一方、「利」とは、内欲をほしいままにして安逸にしたがうことを言う、とある。
幕末の志士たちは、まさに国家社会の改革を叫び、志(理想)が実現されることを要求してゆずらない気概を示した。当時の合言葉は「第二のインドになるな」とうことだったが、その第二のインドにならないためには、彼らは身の危険を顧みないで、あくまでも、その志を述べなければならないのだ。
学問に志した意味が、ここでわが国を救うという使命感に連なったのである。ここに志と使命感はまったく一つのものとなって現れた。吉田松陰などの死に、あたかも殉教者の姿をみるのは私だけではあるまい。
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氏の洞察に敬意をはらいつつ、「志士」を現代の企業経営者に置き換えて考えよう。
それは、経営者として「欲望の中身」が変質することが重要である、ということだ。
奈良本氏の指摘は、まず、「志とは士の心であり、士とは知識人である」とある。封建時代の知識人とは、不労所得で成り立つ武士階級および政治家を意味した。
当然、企業経営者もまた士の心を持った志士でなければならないだろう。そのためには、現実の処世法に長けるだけでなく、「一つの基準に照らしていかに立派に生きるか(死ぬか)」という強い意識が不可欠となる。その「一つの基準」が、封建時代においては武士道を指した。
今では、武士道にかわる新たな基準をあなたみずからが用意しなければならない。その基準たり得るものは、「あなた個人の志」であり、それは、損得や私利私欲に基づくものではない。「実現されることを要求してあくまでもゆずらない気概」をもって掲げる理想である。
その理想の実現のためには身の危険をも顧みないものでなければならない。求道的な厳しい”自己規制”を自分に課すものでもある。
このあとの展開と具体的なフォーマット類などは新著をお求めいただきたい。
なお、4/7(予定)より開始する先行予約特典として、新著で紹介した9点の書式をエクセルファイルでダウンロード(またはメール送付)できるようになる。どうかお楽しみに。