昨日号の「商人八訓」に対して、感想と感謝のメールを多数頂戴している。明日の「ウィークリー雑感」でその一部をご紹介する予定。
さて、渡辺崋山は、江戸時代末期の蘭学者だ。当時主流の外国語であるオランダ語をマスターし、膨大な蘭書を読み、蘭学者との交流も盛んにおこなった。その結果、鎖国日本にありながらも世界情勢に相当長けていた人物だ。こんな逸話がある。
ペリーが黒船に乗って浦賀沖に現れたのは、嘉永6年(1853年)である。開国を迫るため、ペリーはアメリカにいるときから猛烈に準備と学習をした。日本対策ぬかりなし、というところだ。
ペリーは、当時出回っていた日本に関するあらゆる文献を読破、その数は四百冊以上とも言われている。日本に詳しいシーボルトとも頻繁に手紙を交わし、日本人の性格について徹底的に研究し、知悉したうえで日本にやってきたわけだ。単なる“傲慢な男”なのではなく、その実態はアメリカを代表するエリート外交官であり、あの傲慢さは演技だ。
なぜなら、ペリーが研究した最終結論、それは、「日本人とは強圧的態度で交渉すべし」。
そして、結果はどうであったか。残念ながら、徳川幕府の対応はペリーの研究通りであった。
「日本人は脅しに弱い」という考え方は、あれから150年たった今も残っているな気がしてならない。
ペリーの準備に比べ、永年にわたって鎖国を貫いてきた日本側(江戸幕府)は、不意を突かれた格好である。蜂の巣をつついたような大騒ぎ。
実質的に日本初の英和辞典である「英和対訳袖珍辞書」が編纂されたのは、ペリー来航の約10年後であるから、外国人にも英語にも不慣れだ。
ところがペリーは、彼の著書「日本遠征記」にて、日本の対応に少し驚いてもいる。
世界情勢にうといはずの日本を代表して交渉にあたった首席応接使・林大学頭が、意外に欧米の情報に詳しいのだ。これはなぜだろうか?
その理由は、渡辺崋山にある。
当時すでに世を去っていた渡辺崋山が書いた『外国事情書』の知識を林は学んでいたようだ。当時、最高レベルの海外情報エッセンスがつまった名著だが、幕府側の林は、これを読んでいた。だから、ペリーを驚かすこともできたのだ。
だが不幸にも、林は、渡辺崋山のもうひとつの教えを学んでいなかったにちがいない。なぜなら、崋山による交渉の要諦をまとめた「八勿の訓」(はちぶつのくん)を読んでいれば、林や江戸幕府は、あんな不平等な条約に屈するわけがなかったからだ。
「八勿の訓」、それは交渉にのぞむ際、やってはいけない事を渡辺崋山が説いたものだ。内容は次の通り。
1.面後の情に常を忘すれるなかれ
・・相手と向かい合って面談している時、その時の感情に流されて平常心を忘れてはならない
2.眼前の繰廻しに百年の計を忘れるなかれ
・・今現在のやり繰りにとらわれ長期的な展望を忘れてはならない
3.前面の功を期して後面の費を忘すれるなかれ
・・目前の利益をとろうとするあまり、後にそのツケが回ってくることを忘れてはならない
4.大功は緩にあり機会は急にありといふ事を忘すれるなかれ
・・大きな成功は、緩やかに実現していくもの。しかし、それを手にするためのチャンスは、突然にやってくるということを忘れてはならない
5.面は冷なるを欲し背は暖を欲すると云を忘すれるなかれ
・・顔の表面はクールであることを要するが、心の内は暖かであることを要するということを忘れてはならない
6.挙動を慎み其恒を見らるるなかれ
・・立ち振舞いを慎重にし、自分の本心を挙動で見透かされてはならない
7.人を欺かんとする者は人に欺むかる不欺は即不欺己といふ事を忘すれるなかれ
・・他人を騙そうとするものは他人に騙される。欺かないということは、自分を欺かないことであるということを忘れてはならない
8.基立て物従う基は、心の実といふ事を忘れるなかれ
・・基本が立っていれば、あとはみなそれに従う。基本は誠実であるということを忘れてはならない
当時大変めずらしい“交渉の要諦”を説いた教えなのだが、これは、対人関係の場において、今もそのまま通用するのではないだろうか。