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公園の父

東京に行くと皇居周辺を歩きたくなることがある。そんな日は自然な流れで日比谷公園にも行く。
あるとき、「この公園は江戸時代からあったのだろうか?」ということが気になり、スマートフォンで調べてみた。すると、意外なことを発見した。

「江戸城」の日比谷御門のすぐ外に位置していた今の日比谷公園。
江戸時代にはそうそうたる大藩の上屋敷がこの地域に置かれていたという。
萩藩毛利家、佐賀藩鍋島家、三草藩丹羽家、吹上藩有馬家、福知山藩朽木家、盛岡藩南部家、唐津藩小笠原家、狭山藩北条家の各上屋敷があった。

しかし明治維新によって時代が変わると、大名屋敷がすべて壊され、更地となった。そして、その場所は「日比谷ヶ原」と呼ばれた。もともとこの地域は入江だったため、地盤が弱く当時の技術では大がかりな建物をつくるにはふさわしくない。そこで公園を作ろうということになり、明治も 34年になってようやく日比谷公園が完成した。その後、関東大震災や戦中戦後の動乱で日比谷公園も何度も壊されては作られてきたわけだ。

そして、その明治 34年の最初の日比谷公園の完成にはあの「本多静六」博士が深く関与しているというのである。「公園の父」といわれる本多 静六(ほんだ せいろく)博士は、慶応2年 7月 2日(1866年 8月 11日)~昭和 27(1952年)1月 29日)まで活躍した日本の林学博士、造園家である。

勤倹貯蓄を処世訓とし、投資家としても成功し巨万の富を築いた。しかし、退官を機に匿名でほぼすべての資産を教育機関や公共機関に寄付したことでも知られる。

博士は若いころから生活を切り詰め、収入の 1/4は必ず貯蓄をした。臨時収入があればすべてを貯蓄に回した。また、日々 1ページ原稿を書くことを自分に課していたので、370冊を超える著作がある。

すごい人だ。その本多博士が日比谷公園を作ったとは感慨深い。

私は 20代のころ、博士の本を読んで大きく啓発された。そして、しばらくの間、収入の 4分の 1貯金を実行したが半年で頓挫したのが残念である。

よし、これからは日比谷公園に行くたびに本多博士のことを思い出し、貯蓄の大切さも思い起こすことにしよう。「収入の 4分の 1貯蓄、臨時収入はすべて貯蓄」というのは簡単そうにみえて大変な難儀である。

なかなか真似できることではないが、私は今、現代に活きるすごい人のことを思い出した。

本多博士のやり方とは別の方法だが、並大抵の根性では真似できない貯蓄法を考案し、実践している人がいる。「コンビニ貯金」とでもいうべき貯蓄法である。「コンビニでの買い物こそ貯金の大敵」と思っている人がいるそうだが、それを逆手にとれば、コンビニは貯蓄センターに変わるというお話しだ。