某日某所。目標設定に関するセミナーを開催したあと、有志で居酒屋に出かけた。隣に座った 30代前半の男性(仮に A 君とする)との会話。
A 君:「毎年目標を作っていますが、目標設定する事ってむずかしいことだなといつも思います」
武沢:「へぇ、そうなの。難しく考えればそうかも知れないけど、どうしてそう思うの?」
A「心から望んで目標設定しているのか、義務感から目標設定しているのか自分でも分からなくなることがあるのです」
武「なるほど、具体例があれば聞かせてよ」
以下、A 君の話を要約してみた。
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表面的には優しくて温厚そうに見える私ですが、実は打算的で冷たい人間だと思っています。親孝行や家族サービスも世間並みにしているつもりですが、それはすべて責任感と義務感でしているに過ぎません。長男として、夫として、父親としての自分の役割を果たすためにそうした目標を設定しているのです。そのモティベーションになっているものは、立派な自分でありたいためであって、私の親孝行ごっこ・家族サービスごっこに無理やりつき合わさせているような気がします。なので親に会いに実家へ帰っても内心ではどこか不機嫌ですし、家族サービスで旅行に行っても夫婦げんかしてしまうこともあります。
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「分かるような気がする。じゃあ純粋な動機で親孝行や家族サービスをするというのはどういうこと?」と聞いてみた。
親友の B 君が A 君にとっての理想型らしい。
B 君は根っからの親思い、家族思いで、いつもマメに連絡をとっている。手帳やスマホにも親や家族の写真があり、それを見ることがモティベーションになるという。残念ながら A 君の手帳やスマホには親や家族の写真がない。
「B 君は心から相手のことを思いやっています。私はどこか偽善者ぶっています。それが自分で分かるのが悔しいです」
そこで私はこう申し上げた。
・ウマが合う人と仲良くできるは「下」
・ウマが合わない人とも仲良くできるは「中」
・ウマも仲良しも関係なく愛を注げるは「上」
あなたは「中」や「上」をやろうとしている。だから簡単なはずではない、と。
A 君のように客観的な自己観察ができるのは立派なこと。さらにいえば、動機のいかんに関係なく親孝行や家族サービスができていることも素晴らしいことだと思う。
おそらく B 君の場合は親や家族と相思相愛なのだろう。相性が良い、波長が合う、だからコミュニケーションをとっているだけでお互いに癒やされるのだ。それはとても幸せな人間関係だろう。
だが人間関係はそんな幸せなものばかりとは限らない。義務感と責任感からでも親孝行すべきだし、不純な動機でも家族サービスをすべきだ。
ただし、そのプロセスにこちらが成長する機会があることに気づこう。「してやっている」という押しつけがましさがあるうちは相手に愛が伝わらない。「させてもらっている」という感謝の念とさりげなさをもとう。
経営も同じだ。
・このご時世で誰があなたのことを雇ってくれると思うの?うちぐらいだよ、あなたをこんな優遇できるのは。
・正直言ってあなたに払っている給料は高すぎる。
・ボーナスをこんなに払える業績じゃないのに払っているのは私(社長)が立派だから。本来ならこんなに払いたくないんだがね。
そんな気持ちで払っていたら社員は敏感にそれを感じ取る。そして、心の中でこう思うはずだ。「もっと私を必要としてくれる人のところへ行こう」と。
行為そのものも大切だが、行為の裏にある気持ちを磨くことが自己成長の鍵をにぎる。