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どんどん焼けからの復興

京都に住んでいる人に「前(さき)の戦争」といえば、太平洋戦争ではなく応仁の乱(1467ー1477)のことをいう、と聞いたことがる。その理由は、太平洋戦争において京都は、他の都市に比べて空爆被害が軽微であったためらしいが、本当にそうなのだろうか。

応仁の乱では京都が主戦場となり、しかも 10年も続いたことから、京都中が灰になった。そういう意味では、京都で代々語りつがれる戦争のひとつが応仁の乱であろう。

だが、「さきの戦争が応仁の乱」というのはやや都市伝説ではないかと私は思っている。歴史的にみれば、応仁の乱までさかのぼらなくても「どんどん焼け」の方が記憶に新しいのではないだろうか。

…「どんどん焼け」(どんどんやけ)とは、禁門の変にともない元治元年 7月 18日(1864年 8月 19日)に京都で発生した火災の通称。元治の大火(げんじの たいか)、鉄砲焼け(てっぽう やけ)ともいう。手の施しようもなく見る間にどんどん焼け広がったさまから「どんどん焼け」の名が、また市街戦で鉄砲の音が鳴り響いたことから「鉄砲焼け」の名がついた。…(ウィキペディアより)

幕末の「禁門の変」では、当時の長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と堺町御門付近から出火した。あっという間に火は広がり、京都の約 2万7000世帯が焼失した。被害は焼失町数 811町(全町数1459)、負傷者 744名、死者 340名にのぼった。経済的なダメージも計り知れないものだったろう。

その禁門の変が 149年前に京都で起きたのである。私が生まれたのが 59年前のことだから、149年前なんて京都の長い歴史からみれば、「ついこの間」のようなものだ。これを忘れて「応仁の乱」までさかのぼるとは思えない。

さて、禁門の変に端を発した京都の「どんどん焼け」。その翌年、薩摩と長州は同盟を結び、倒幕運動が加速する。そして翌年には大政が奉還され江戸幕府は消滅し、明治維新をむかえる。

「やれやれ、ようやく戦火が収まった」と京都っ子は思ったに違いない。だが、終戦の喜びもつかのま、明治が始まると同時に、天子様(天皇)が江戸に行ってしまわれると言う。それどころか、政治の中心も東京へ行ってしまうという。平安時代から 1000年以上続いた政治経済の中心が東京へ奪われる。このまま京都はひっそりと歴史のかなたに消え去っていくのか。もしこのとき、京都の人たちがあきらめていたら今日の京都の姿はない。

そのあたりは 8月28日に放映された NHK「歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす~千年の都 復興ものがたり」に詳しいが、見逃した方のために、明日、簡単に今日の復興策について振り返ってみたいと思う。

★歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
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