★テーマ別★

チャイコフスキーと……

収入源が確保されていない人の生活は苦しいものになる。たとえば、まだ議員ではない政治家、売れていない芸術家、幕末の脱藩浪人、起業したばかりの起業家、……。こうした人たちは何らかの副業でお金を稼ぐか、パトロンを見つけるか、極貧生活に甘んじるか、あるいは本業で早く稼げるようになるかのいずれかを選択しなければならない。

クラシック音楽の作曲家の生活はどうなのだろう?

”謎の多い作曲家”といわれるチャイコフスキー(ロシア人、1840年~1893年)は、ロマノフ王朝による皇帝政治が終焉をむかえていた時代の作曲家で、彼の没後 11年目に日露戦争が起きている。

チャイコフスキーの評価は真偽おりまぜていろんなものがある。

・彼のつくる曲は俗ウケを狙った低俗なものばかり
・愛国作家として国に利用された作家
・大変な旅行好きで外国旅行しなかった年はほとんどない
・彼自身の性格は平凡な小心者であった
・酒好きで頭痛持ちだったが生活は規則正しかった
・女性に興味がなく、結婚は形式的なものであり同性愛者であった
・死因はコレラとも服毒自殺とも言われる
などなど。

そんな彼だから”謎の多い作家”といわれた。だが作曲だけで生活できた数少ない音楽家の一人である。その点は大いに誇って良かろう。副業をもたねば生活できなかった作曲家が多かった当時のロシアにあって、チャイコフスキーは羨望のまなざしで見られたことだろう。

当時のロシアには、ムソルグスキーが加わる「五人組」がいてチャイコフスキーと人気を分けあったが、五人組の生活は苦しかった。チャイコフスキーのバックにはメック夫人という強力なスポンサーがいたのだ。

余談だが、司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を新聞連載を始めるとき、当時の産経新聞社長が、月額 100万円の原稿料を司馬に提示してくれた話に似ている。「半分でけっこうです」という司馬に対して、「それなら、いるだけとって、あとは捨てるなり、なんなりしたらいい」と答えたそうだ。当時の初任給の相場で比較すれば、いまの 750万円という莫大な月額原稿料になる。そのときから、司馬遼太郎の資料購入費は日本一におどりでたといえる。そういう意味では、『竜馬がゆく』以降の面白い小説は産経新聞という大きなスポンサーなくしてありえなかったことかもしれない。

メック夫人もすごいスポンサーだった。彼女のご主人はロシアの鉄道王・カール・フォン・メックで、夫が亡くなって多額の財産を相続していた。チャイコフスキーの友人の一人がメック夫人と親交があり、彼の紹介でメック夫人のために曲をつくることになった。その曲が夫人の心をつよく打ち、文通が始まった。多い時には一日に 3~4通も行き交い、13年で 1000通を超える手紙を交換している。そのやりとりのなかで資金援助の話を彼女から持ち出したといわれている。その金額は月額 500ルーブル。当時の平均的なロシア人が年間 700ルーブル程度で生活していたというから司馬の原稿料に匹敵する金額が年金として支払われた。しかもその条件は「絶対会わないこと」。結局この年金は 14年間つづいた。

うらやましいお話しだが、この話題のニュースソースは『大作曲家たちの履歴書』(三枝成彰著、中公文庫 上下巻)である。この本が今売れているようで、丸善オアゾ本店で平積みされていた。上巻にはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなど10人の素顔が、下巻にはヴェルディ、ブラームス、チャイコフスキーなどの 10人が紹介されている。彼らの性格、健康状態、金運、趣味嗜好、友人関係、死因などが履歴書風にまとめられているのがユニークだ。クラシック音楽家といえば、あまりに有名すぎて神格化してしまいそうだが、彼らも生身の人間として人生と格闘していた様子が手に取るように分かる好著だ。

★大作曲家たちの履歴書
⇒ http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=3730