その日、私は大物に会うことになっていた。ノリの効いたYシャツにネクタイをきつく締め、鏡にむかって衣服をあらためた。目覚めたときからの緊張感は、深呼吸をしても鼓動が鎮まらない。「どうしたんだ、ソワソワして。私らしくない・・・。」
そう、その日7月18日の午後は萩市で吉田松陰さんとのアポがあったのだ。
遠石八幡宮の神主をされる黒神さんと、人材育成コンサルタントの松原さんのご案内によって松陰神社や高杉晋作・木戸孝允・久坂玄瑞などの生誕地を巡るという私にとっての大充電を果たすことができた。しかも松陰神社では、同神社の宮司さんにご案内いただき、松陰や松下村塾にまつわる様々な逸話もお聞きすることが出来た。望外中の望外ともいうべき幸せである。
今回の長州遠征でずっと考えていたことは、“志に殉じる”とはどういう生き方を指すことなのかということだ。そして多数の資料を買い求め、松陰自身が書き残した膨大な日記や手紙などを読むうちに、どうにかそのヒントをみつけることができたように思う。今日明日のマガジンでそのあたりを掘り下げてみたい。
まずは、言葉の定義を確認しておこう。
三省堂e辞林によれば、「志」とは、“心に定めた目標や目的”という意味だ。そして「志士」の定義は、“国や民族のために奔走する人”となっている。
この定義を尊重するならば、「志」をもつということは、特別なことでも何でもない。目標を持てば良いのであり難しくはない。ところが「志士」たらんとすることは難しいことだ。なぜなら国や民族のために奔走しなければならないからだ。
「がんばれ社長!」らしく経営に置き換えて考えてみよう。経営者を志によって分類すれば3種類あることがわかる。
1.志をもたない経営者
2.志をもっているが志士とは言えない経営者
3.志士たる経営者
「1」の経営者はいないと信じている。
問題なのは、「2」と「3」の違いだ。
「3」の志士たる経営者とは、国家や民族のための志があり、その実現のために奔走する人のことである。国家や民族という部分がピンとこないならば、それを「経営理念」と置き換えても良いだろう。そうした生き方をする人が“志に殉じる”“志のために命を投げ出す”ことができる経営者であり、それが男子の本懐であるように思う。
「2」の経営者とはどんな人なのか?