その他

迷うことは現役の証

「へぇ、あんなすごい人でも迷うんだ」と思うことがある。
先日もあるテレビ番組でプロ野球解説者・落合博満氏とパリーグのホームラン王 山川穂高選手(西武)の対談が放送された。
現役時代の落合選手は三冠王タイトルを三度も取った伝説の打撃職人。
文句なしの実績をバックに語る落合流打撃理論を前に、現役ホームラン王もたじたじの様子。

落合に求められて素振りをする山川。それをみて落合は「お前、よくそれで打てるね。俺だったら10本も打てない」
「ホームランですか?」
「そう」
40本以上のホームランを打ち続ける山川流バッティングフォームは、落合には受け入れられなかったようだ。その後、落合流バッティング理論を聞く山川選手は高校野球選手のようにみえた。

そうした山川選手の表情をみながら私は、「すごい人でも迷う」という軽い驚きと、「すごい人だから迷う」という感心の気持ちがあった。
「四十にして迷わず」と孔子がいうが、迷わなくなったときが現役引退の潮時なのではあるまいか。迷いは現役の証なのである。

みんな迷っている。だから新しい答えを求めるし、誰かに背中を押してほしいと思う。

私も迷ってきた。34年前(1985年)の晩秋のできごとは特に忘れられない。時期的にはちょうど今ごろだったと記憶している。
31歳の私は人生の岐路にいた。

サラリーマンを辞めてフルコミッションの仕事に飛び込むべきか、それともそんな無謀なことはやめてサラリーマンを続けるべきか。
居酒屋に友人を誘い、苦手な酒を飲みながら友人に相談してみたが、「お前には営業は向いてないと思うよ。独立するにしても別のことの方がいい」という反応が大半だった。

フルコミッションで売るものは目標設定教材だった。ユーザーとして私は商品は良いし、市場性もあると思っていた。
だが、私にその営業ができるかどうかは分からなかった。なにしろ製造業5年、小売業5年、計10年のサラリーマン経験しかない。
店舗での接客営業は経験があるが、見知らぬ人にアポをとり、訪問販売でフルセット100万円もする教材を売り込めるかどうかは分からなかった。

教材の代理店社長をしておられたO氏は「武沢さんなら必ずできる」と言ってくれた。「毎月がボーナス月になるだろう」とも言った。
だが、「いまうちにいる数人の営業マンは、まるっきり売れていない」と不安になるようなことも言った。

自分のなかのリトル武沢はこう言っていた。
「絶対売れる。このビジネスはお前の登場を待っていたのだ」と。

自分のなかのスモール武沢はこう言っていた。
「売れるはずがない。そんな危険なビジネスに参入したらお前の人生は台無しになるゾ」

迷いに迷った私は最高のアイデアを思いついた。
東京(恵比寿)にある教材会社の役員に会って、人柄や見識をみれば、自分の進む方向がわかるかもしれない、と。

電話してみると、「セールスディレクター」のSさんが30分間時間を作ってくれるという。時間を無駄にできないので、質問の要点を前もってメモし、東京に向かった。

・御社の経営哲学や経営目標は?
・過去数年の売上高の推移は?
・販売に関する基本方針は?
・セールスマンの人数の推移は?
・セールスマン一人あたりの販売金額と収入額は?
・この仕事をしている人たちの前職は?
・成功するセールスマンの資質は?
・・・etc
質問項目は10項目以上にのぼった。

恵比寿の本社に着いた。緊張しながら応接室で待っていると、定刻にSディレクターが表れた。簡単な自己紹介をすませて、メモをみながらすぐに質問をはじめる私。最初の1~2問には誠実に答えていただいたが、まだ質問が続きそうだと判るとSさんは私のメモ用紙に目をやりながら、こう言った。

「武沢さん、今日の面会の目的は何ですか?このビジネスで成功するためのご相談ではないのですか?」
穏やかな表情だが、声は毅然としてきた。

「いえ、実はまだ、迷っておりまして…」
「迷っている?」
「はい、実は来年夏には結婚する予定があるのです。そんなタイミングでフルコミッションの仕事をして良いのかどうか。それに私には営業の経験がありません」
「それで?」
「それで、どうすべきかご相談にあがったのです」
「僕はあなたの人生相談の相手ではありません。それにあなたが、この仕事をすべきかどうか、私には分かりません。あなたの価値観や人生目標のなかでお決めになることです」
「それは分かっているつもりですが」

このあたりからSさんの表情が険しくなっていった。Sさんはチラッと自分の腕時計をみた。私も応接室の柱時計をみた。まだ三分しか経っていないと思っていたが、すでに10分経過していた。

<あすにつづく>