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論語と算盤 その4

新一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一。いったいどんな人なのかを
さぐって四日目となる今日は最終回。
例によって『論語と算盤』のなかから彼の人となりをみていきたい。
◇「武士道は即ち実業道なり。武士道の神髄は正義、廉直、義侠、敢
 為、礼儀等の美風を加味したもので、一言にしてこれを武士道と唱
 えるけれども、その内容に至りては、なかなか複雑した道徳である。
 しかして余が甚だ遺憾に思うのは、この日本の清華たる武士道が、
 古来専ら士人社会のみに行なわれて、殖産功利に身を委ねたる商業
 者間に、その気風の甚だ乏しかった一事である。古の商工業者は、
 武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義侠、敢為、礼
 譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考えた。
 士人に武士道が必要であったごとく、商工業者もまたその道が無く
 ては叶わぬことで、商工業者に道徳は要らぬなどとはとんでもない
 間違いであったのである。
武沢注:いまでこそ「理念経営」が当然の世の中になりつつあるが、
    当時(約100年前)はそうした常識がなかったはずで、渋沢の
    先見性の高さをうかがう記述である。
◇富貴は人類の性慾とも称すべきである。道義的観念の欠乏せる者に
 功利の学説をもって教育するは、薪に油を注いでその性慾を煽るに
 等しい。
 孔子のいわゆる「富と貴きとは、これ人の欲する所なり。その道を
 もってせずしてこれを得れば処らざるなり。貧と賤とは、これ人の
 悪む所なり。その道をもってせずして、これを得るも去らざるなり」
 とある。誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するもの
 ではあるまいか。
武沢注:「富貴は人類の性慾」とはよく言ったものだ。道徳観をもた
    ない人が金や権力をつかむとひどいことになる。それは暴君
    ネロや酒池肉林におぼれた殷王(ちゅうおう)など歴史が何
    度も何度もくり返し証明してきた。
◇現代青年の師弟関係は、全く乱れてしまって、今の青年は自分の師
 匠を尊敬しておらぬ。学校の生徒の如きは、その教師を観ること、
 あたかも落語師か講談師かのごとく、講義が下手だとか、解釈が拙
 劣であるとか、生徒として有るまじきことを口にしている。
 青年は良師に接して、自己の品性を陶冶しなければならない。昔の
 学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問を専一にしたが、
 現今は智識を得ることにのみ力を注いでいる。
武沢注:教師が落語家や講談師とはおもしろい指摘。やはり最後は教
    育問題である。国家百年の大計で精神的な支柱となる考え方
    を教育する必要がある。だが果たして民主主義、自由主義の
    なかでどれだけ国家主導の教育ができるか。民間の教育者や
    指導者、経営者がそうした草の根運動的な役割を担っていく
    必要があるだろう。