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名文家・土門拳

私にとって今回の鶴岡/酒田旅行の白眉は土門拳記念館である。
最上川急流下りも鈴政の寿司も舞子の踊りもすばらしかったし、竹久夢二の絵にも心動かされた。しかし、何にも増して土門拳記念館でみた写真の数々が私の心をとらえて離さない。

10代の美空ひばりが楽しそうに寝そべる写真には次のような土門の解説があった。

「彼女は一時間以上遅刻してきた。しかもあとの予定が決まっているという。あわてて短時間でフィルム7本分撮った。まだ小娘なのに、撮られ方を心得ていた」

土門拳は報道写真家である。完全主義者の写真家としても有名で、「風貌」「古寺巡礼」「筑豊のこどもたち」などの写真集はロングセラーを続けている。
歌人・斉藤茂吉が大好きだというだけあって文学的才能にも恵まれ、土門は名文家としても知られている。

自分が撮りたい人物を毛筆で襖に書く。一人撮るたびに、襖を貼りかえ、新たに撮りたい人を書く。
ついにあこがれの歌人・斉藤茂吉翁の写真を撮ることになった。翁は71で他界するが、このときは70になんなんとする年齢で、すでに身体が弱っておられた。その日、こんなやりとりがあった。

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「先生、ぼくは酒田です」
と呼びかけると、
「おお、それはおなつかしい。そうですか、そうですか」
と、まるで古い知己にめぐりあったように茂吉先生は喜んだ。
「先生の故郷は最上川上流の東村山で、ぼくは最上川河口の酒田港です」
それにしても、ぼくは長い間会いたい会いたいと思っていた人の病み衰えた姿を見て、何か胸が一杯で、撮影も思うに任せなかった。撮影は奥さんとの約束通り五分で打ち切ったが、茂吉先生は何か話したげで、仲仲腰を上げられなかった。奥さんに促されて、ようやく寝床へ戻られたが、それでも応接間を出て行かれる時、駄々子のように柱につかまると、「土門さん、他にもう用事はございませんか」とぼくの顔を見られるのだった。
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このときの茂吉の写真は、無欲の老爺が膝に両手をそろえてちょこんと座っているものだ。素足に草履を履いている茂吉の全影である
正岡子規を祖とし、写実的・生活密着的な歌風をもつアララギ派。
その中心人物である斉藤茂吉を好んだ土門。二人の一期一会のシーンが伝わってくる。

写真はむごい。現実を情け容赦なく写しとる。

「筑豊のこどもたち 弁当を持ってこない子・1959」と題されたその写真は小学校の弁当の時間。生徒の多くは夢中で弁当を頬ばっているが、二人か三人、雑誌やまんがを読んでいる。その写真に土門はこんな一文を添えている。

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炭鉱失業者のこどもは弁当を持ってこられない。昼食時間の間、彼らは決して視線をさまよわさず、絵本やこども雑誌を見ながら、何かを耐えている。
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芥川龍之介が一番小説を書かせたい人として土門拳の名をあげた
土門はそれほどの名文家なのだが、私も思わずうなった文章がこちら。
「走る仏像」と題されているが、まずはお読みいただきたい。

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仏像は静止している。伽藍は静止している。もちろん境内の風景は静止している。と、だれしも思うだろう。ところが或る日、宇治の平等院へ撮影に行った帰り、鳳凰堂に別れを告げようとして振り返ってみたら、茜雲を背にたそがれている鳳凰堂は、静止しているどころか、目くるめく速さで走っているのに気がついた。しばし呆然となったわたしは、思わず「カメラ!」とどなった。その間にも鳳凰堂は逃げるように、どんどん、どんどん走っている。「早く、早く」とわたしはじだんだを踏んだ。そして棟飾りの鳳凰にピントを合わせるのももどかしく、無我夢中で一枚のシャッターを切った。たった一枚。そしてもう一枚と思って、レリーズを握ったわたしは、シャッターを切るのをやめた。さっきまで金色にかがやいていた茜雲は、どす黒い紫色になり、鳳凰堂そのものも闇の中に姿を消していたからである。それにしても、茜雲の平等院以後、わたしには、仏像も建築も風景も、疾風のような速さで走るものになってしまったのには閉口である。
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情景が思い浮かぶ。しかも静的なものではない、動的な情景が思い浮かぶ。
ただでさえ凄い写真にこんな文章を添えられたら、他の写真家はたまったものではないだろう。
最近はデジタル処理でいかようにも画像加工ができるようになったが、それが写真家の目や感性を奪っていないかと心配になる。

さて、あなたも東北方面にお出かけの際は、鶴岡/酒田の庄内にも足を運ぼう。
酒と魚がうまいのはもちろん、様々な歴史遺産や自然遺産がある。
それに土門拳の記念館がある。

★土門拳記念館 http://www.domonken-kinenkan.jp/