今から約350年前の延宝元年(江戸時代初期)、三井高利は52歳の高齢ながら呉服店をひらいた。
場所は江戸随一の呉服街である江戸本町1丁目(今の日本橋)。
間口9尺の店を借り受け、「三井越後屋呉服店」(越後屋)という名をつけた。
江戸時代の平均寿命は40歳未満。そんななかでの52歳は今の90歳ぐらいの感じだろうか。
だが高利(たかとし)の発想は年齢を感じさせない斬新なものだった。
それまでの呉服販売の常識を覆すような販売手法を次々に打ち出していった。
ひとつが「店前(たなさき)売り」だった。
当時の呉服店は、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する「見世物商い」か、商品を得意先に持参して選んでもらう「屋敷売り」のいずれかが一般的だった。
得意先がなかった高利はその両方を拒否し、「店前(たなさき)売り」一本に絞った。店頭販売のみで行商はしません、そのかわり、安くさせていただきます、という合理的な経営方針である。
それだけではない。
高利は「現銀(金)掛値なし」という販売方法もとった。
当時の江戸は、盆・暮の二節季払いか、12月のみの極月払いの掛売りが慣習であった。そのため、貸倒れや掛売りの金利がかさむので、商品の値を高く付け、相手によって値下げ交渉に応じていた。
実際に売りたい値段よりも高く表示する掛け値販売も高利は廃止にした。店前売りに加えて、商品すべてに正札をつけ、現金による定価販売をメインにしたのだ。相手によって値段を変えない一物一価販売の先がけといえる。
さらにまだある。
その当時、呉服業ではタブーだった「切り売り」にも応じた。
他店はどこも一反単位の取引が常識なのに高利の店では好きなサイズに切り売りしてくれるとあって着物ファンが殺到した。かくれていた江戸町民の需要を掘り起こすことにも成功したのだ。
とどめは「即座に仕立てます」というイージーオーダーだった。
反物を売るだけでなく、それをつかった「仕立て売り」サービスが評判を呼び、越後屋は大繁盛。江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、文字通り1日千両の売り上げをあげるほどに繁盛した。
ちなみに当時の千両は今の8,000万円である。人気の歌舞伎役者を「千両役者」と呼んだが、それは年収が千両を超えていたからだ。
それを高利の「越後屋」が一日で売っていたわけだから、当時の隆盛がしのばれる。
余談ついでに江戸にはもう一カ所、1日千両売る場所があった。それが「吉原」(遊郭)である。
芝居(歌舞伎)、魚河岸(築地)、越後屋(呉服店)、吉原(遊郭)、江戸文化は庶民と商人がコラボで創り上げたものでもある。