「説教」「自慢話」「昔話」を好むようになってきたら老いた証拠。あるいは心が傲慢になってきた証拠かもしれない。だから、なるべくそうした話題は避けた方が良い。そう世間で言われている。だが、本当にそうだろうか。老いてきてはいけないのか、傲慢ではいけないのか。
落語家の立川談志は「自慢」「愚痴」「悪口」の三つは心の老廃物として誰にだってあるもの、と弟子に教えていた。だからオトしたい相手、それが異性であれ仕事先であれ、相手の「老廃物」を受け入れる力を養えという。さらには、面白い自慢・愚痴・悪口を言えるようになることが落語家として必須のスキルであるとも説いていた。
落語の登場人物は、どこにでもいるツッコミどころ満載の人たち。そういう人物同士が話すことは、自慢・愚痴・悪口が多くなる。だが、そうした話題をしながらもどこか愛嬌があるし、時には爽やかですらあるのはなぜか。それはスキがあるからだ。スキとは、相手にツッコミの余地を与えることである。それがない完ぺきな自慢・愚痴・悪口は聞き手を圧迫する。
『いつも同じお題なのになぜ落語家の話は面白いのか』(立川談慶著、大和書房)を読んだ。談志の弟子だった談慶は、前座修行を9年半も行ったそうだ。これは普通の人の三倍の長さだという。前座→二つ目→真打ち、の順で昇進する落語界にあって昇進させるかさせないかは師匠が決める。「いかに自分を快適にするかが前座の仕事だ」と弟子に言っていた談志にとって、談慶はなかなか快適にしてくれない弟子だったというわけだ。それは、慶応大学から一部上場企業で働いたエリートの経歴がなにかの邪魔をしていたはずである。エリートが愚かなフリをしても鼻につくだけ。本物の愚かになるのに人の三倍の時間がかかったのだろう。
下積み苦労が長かった談慶だけに本にも深味がある。本来「会話はラリー」。なのにすぐにまとめたがる人、すぐに結論を出したがる人にとって「会話はスマッシュ」と談慶。私も家族が話すことに対して「要点を手短にいうと何?」「で、結論は?」などと返してしまうが、ラリーを求めている相手にスマッシュを打ち込んでいるわけだから、玉は返ってこなくなる。落語は会話のラリーだし、会話が面白い人というのは話題が豊富な人ではなく、ラリーができる人だと談慶。視点として面白い。
さて心の老廃物についてだが、「自慢」「愚痴」「悪口」を言っても許されるのはスキがあることの他に、それを笑いに変え、完全無毒化に成功したときでもある。
たとえばボヤキ漫才。
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「リンゴの唄」に
人生幸朗:「リンゴは何も言わないけれど・・・」
「んなもん、リンゴがしゃべりよったら八百屋、うるそぉ
てかなわんわい!!」
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愚痴や悪口もこのようなツッコミがあることで笑いに変えることができる。これが無毒化の技法。
「ここだけの話だけどさぁ」と秘密を共有すれば連帯感が生まれるように心の老廃物も笑いに変えることで相手との距離がぐっと近くなる。自慢話、愚痴、悪口、それに説教と昔話を加えた五種類の老廃物も、上手に扱えるコツをマスターしたいものである。
※参考:『いつも同じお題なのになぜ落語家の話は面白いのか』(立川談慶著、大和書房)
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