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続・大友課長の引き際

●「士は己を知る者のために死し、女は己を説(よろこ)ぶ者のために容(かたち)づくる」は春秋戦国時代の予譲(よじょう)のことば。

●「大友君(仮名)、あなたに期待している。今度のこのプロジェクトはあなたに任せたい。当社にとって大きな意味があるこの仕事を来期中にやり遂げてもらいたい。どうだ、やってくれるか」

●人事課長の大友は、直属上司である坂口部長に高く評価され期待されていた。坂口部長のためなら、たとえ火の中水の中、という思いだ。
また坂口部長の上司にあたる堂島社長のことも大いに尊敬していた。

●「士は己を知る者のために死す」というが、サラリーマンも同じだ。
自分を認めてくれて、さらに、新しい自分を発掘してくれる上司をもつことはサラリーマン冥利に尽きる。このままの関係がずっと続いてくれれば良かったのだが、組織に人事異動はつきもの。

●ある日突然、大友の運命が変わる。

大手繊維メーカーを定年退職されたばかりの山崎さんが、坂口部長の後任としてやってきたのだ。話が長いし滑舌がわるくて聞き取りづらい。だが、典型的な善人タイプのようだった。与しやすし、と思った大友だったのだが・・・。

●就任一週間めの夜、総務人事部員7人で山崎部長の歓迎会を行った。
大いに歓談し、愉快な食事会もいよいよお開きにさしかかったとき、山崎部長が立ち上がってあいさつした。

「みんなありがとう。ようやく仲間入りさせてもらった気分だ。今宵はうれしい。男・山崎、この会社でみんなと一緒に骨をうずめる覚悟である。よろしく頼む」と一人一人に握手をもとめた。

その後、こう続いた。
「一次会はここまでだが、大友君をはじめとする独身男性諸君、もう一軒行こうじゃないか。私のなじみの店がこの先にある。費用の心配は無用だ、ついてきてくれるね」

●閉会後、山崎部長と独身男性三名はタクシーに乗り込んだ。どこへ連れていかれるのか気がかりだったが山崎部長が運転手にこう告げた。

「三丁目の交差点の『貴賓席』まで」

●独身組は互いに顔を見合わせた。いかにも高級そうなクラブの名前でもあり、いかがわしい匂いを感じなくもない

やがて降ろされた場所は、三階建ての「貴賓席ビル」というビル名だった。1階から3階まですべて麻雀専用の店で、いわゆる雀荘なのだが、会員制をウリにしていた。山崎部長はそこのメンバーらしい。幸い、独身男性の三人とも学生時代に麻雀の経験があるので、四人で興じることにした。

●「久しぶりです」「懐かしいな」「今は全自動なんですね」という興奮で始まった男四人の遊びはやがて白熱していく。

一時間ほど経ったころだろうか、山崎部長は何気ない感じでこう言った。
「あ、そうそう、大友君ね、来月から君は人事課長から総務人事課長にしてもらうよう堂島社長にお願いしておいたからね、あ、それポン」
「え、部長、それどういうことですか?チー」
「どうって君には総務の仕事もやってもらいたいからだよ」
「え~、でも人事が手薄になりませんか」
「大丈夫だ、ひとり補佐をつけるから、その東、ロン」

●この日が最初の「貴賓席」会議だった。その後も重要事項の多くはなぜかふしぎと「貴賓席」で告げられることになった。
そのたびに大友課長にとってはうれしくないことが告げられていく。

・大友君がやってきた人事の仕事のすべてを後任の相沢主任が担当する。大友課長は当面、総務部門の重要事項に専念してもらう。
・当面は毎年数千万円使っている収入印紙の節約に取り組んでもらう。
・その次には、保険を使った企業年金制度の設計に取り組んでもらう。
・ファシリティマネジメント(設備・店舗の資産管理)も大友君に期待している。

●大友課長は長年現場で働き、その仕事ぶりを坂口部長と堂島社長に評価され人事部門に来た。そこで一定の成果を出したから今度は別の部門に異動して、そちらで懸案事項を解決してほしい、ということだろう。企業としては当然の人事判断である。

●だが納得はできない。ある日の午後、大友は山崎部長の席に向かった。
「部長、なぜ僕が収入印紙や年金制度なのですか?僕は人事マンとして社員の育成や処遇に関する仕組み作りに取り組み、そのことに情熱を感じています。申し訳ありませんが印紙や年金にはいまのところ情熱を感じないのですが・・・。」

●もしこのとき、坂口部長ならこう言ってくれたはずだ。

「あなたの人事への情熱はだれよりも分かっているつもりだし、正直、人事の仕事が手薄になるのは私も痛い。だが大友、いま我が社は地方の中小企業から脱皮を図ることが最重要課題なんだ。お前のおかげで人事制度はこの二年で急速に進化した。だが総務はまったく手薄のままだ。このままでは上場審査は通らない。堂島社長は上場を真剣に考えておられるのをお前も知っているだろう。収入印紙の節減問題は、前期だけでも○千万円の利益貢献に直結する重要テーマだ。年商に換算したらお前ひとりで何十億円も売上を作るのと同じ意味になる大きなテーマだ。もうひとつの年金制度にしたって、社員が定年まで安心して働いて、定年退職後には人がうらやむような一時金とその後の年金がもらえるようにしたら、国家年金が破綻してもまったく慌てることはない。お前はまだ30歳だからピンと来ない話題かもしれないが、あと20年もしたら切実なテーマになってくるはずだ。企業百年の計は総務にある。どうか一肌ぬいでくれ」

●「分かりました。部長、総務の勉強をやらせて下さい」と大友は潔く総務マンに転身していただろう。だが、この時の山崎部長のセリフを大友を失望させるものだった。

「大友君、今回の人事は社長のご命令なんだ。あなたの後任はすでに決まっているのだし、今さらあなたが何を言っても一度決まった人事はくつがえらないよ」
「部長、くつがえしてほしいのではなく、なぜ私が印紙や年金なのか、ということです」
「人事についていちいち社員に理由を述べるのかね?」
「当然でしょう部長、意味があるから社員に異動を命じておられるのですよね」
「もちろん無意味な異動はさせないが、ひとりひとりの社員に異動の意味を伝える必要はないと僕は思うがね」
「少なくとも部長の前におられる大友は知りたがっています。教えていただけませんか」
「あなたにだけそんな特権を与えるわけにはいかんだろ、それよりも大友君、印紙の仕事は私も昔にやったことがあるが、税法の世界は結構奥が深くてためになるよ。また『貴賓席』でそんな話題をしてみたいもんだがね、どうだい、今夜あたり」

●引き際を感じた瞬間だった。大友はその後、半年かけて収入印紙問題に片を付けた。年間で千万単位のお金を節減することに成功したのだ。
勉強すればするほど総務の仕事に興味は感じたが、上司への信頼は日に日に薄らいでいくのを感じた。

●そんなある日、知人の紹介で「うちでやってくれないか」と熱心に大友を口説いてくれる経営者に出会った。中堅の建設会社だった。
大友の人事マンとしての才能だけでなく経営幹部として高く評価してくれていたのだった。
当面の待遇はかなり悪化する。企業規模も小さい。だが、大友はそちらへの転職を決意した。そのとき大友は自分を追い込むために条件を出している。

「二年間きっちりやらせてください。その後はコンサルタントとして独立します。そんな私でもよろしいですか?」
「もちろん、その時はうちを第一号の顧問先にしてくれ」
大友は決めた。

●やがて大友は人生計画よりやや遅れたが自分の城をもった。
人事専門のコンサルティングの会社だった。もし山崎部長が大友の前に現れず、ずっと坂口部長のままだったら、「大友経営人事研究所」はこの世に誕生していないだろう。

●「士は己を知る者のために死す」というが、己を知ってくれなかった上司のおかげで大友は独立できた。
よって、「士は己を知らない者のために活きる」というのも今の大友の信条になっている。

要するに、どう転んでもいいように準備しておくということなのだろう。