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リーズナブルな女

●「リーズナブル」という言葉を初めて知ったのは27歳の時だった。

コンピュータによる性格診断でベストなお見合い相手を紹介してくれる 『A インターナショナル』に入会していた私は、ほぼ毎月1回のペースでお見合いを重ねていた。

●たくさんのお見合いをしたが、なかでも強く記憶に残っている女性が何人かいる。
とくに鮮烈な思い出は、私の中で「リーズナブルな女」と記憶されることになった、あの帰国子女だ。たしか私と同じ歳だったはずだ。

●その日、いつものように栄のミスタードーナツ(今もあるが)で待ち合わせした。お相手の女性は、私より数分遅れてやってきた。真っ白いワンピースに真っ赤なエナメルバッグを袈裟懸けにしている。陸上の長距離選手のようなしなやかそうな細身の身体に、度の強い眼鏡をかけていた。由紀さおりを彷彿とさせる色白美人で、お父様の仕事の関係で小学生の数年間をフランスで過ごしたという。

●「甘いものはちょっと苦手なので」と彼女は紅茶だけを頼んだ。私はいつものようにドーナツを三つとアイスコーヒーを注文した。簡単な自己紹介を終え、私が三つめのドーナツに手を伸ばしたとき、彼女は言った。
「あの、お腹がすいてらっしゃるようですね。お昼も近いことですし、ランチでもいかがかしら?」

●会って10分でランチのお誘いとは幸先いい。これは今までと違って初対面ですぐに断られることはなさそうだ。いい感じになればいいが。

「ご飯ですか、いいですね。このあたりなら食べ物屋さんも多いですし。お好きなものはなんですか?」と聞いてみた。
てっきり「パスタです」とか「お蕎麦です」とか「ファミレスなら何でも」という答えを予想していたのだが、彼女はカタカナばかりの難解なことばを口にした。

●「行きつけのフレンチレストランはいかがでしょう。お昼のコースも美味しいのよ。今の料理長はパリのミシュラン一つ星レストランでチーフシェフをやってらしたフランス人で、お味のほうは折り紙付きですよ。お値段もリーズナブルですし、ハウスワインも美味しくってよ。もちろん本格的なワインメニューも充実してるわ。○○ホテルにありますから、タクシーなら10分ってところかしら」

●私は混乱した。疑問と不安と疑念で入り交じっていたのだ。

ミシュランって時々聞くが、なんだ?
フレンチって食べたことがないけど、高いのか?
○○ホテルって有名だけど、そこのレストランだからやっぱり高級じゃないの?
彼女の行きつけみたいだから、ひょっとして払ってくれるのかな?
そんなわけがない。割り勘も失礼だからここは自分がもたねば。
でも「リーズナブル」ってどういう意味?高級、それとも安い?
料理だけでなくワインも飲むつもりなんだ。こっちは酒は苦手なのに。
タクシーで10分って言ってたが、幾らかかるんだろ?
財布の中身はたしか 2万円しかない。とても足りないがカードで支払いできるのだろうか?
でも、今もっているクレジットカードって使えたかな?
どうして会っていきなり高級ホテルのフレンチなんだろう?いつもこうなのかな?

●そんなことが走馬燈のように脳裏をよぎったが、口から出た言葉は思いもよらぬものだった。

「いいですね、楽しそうです。さっそく行きましょう」

●約一時間後、フレンチのコースを食べ終わってデザートとコーヒーの時間になっていた。何を食べたのか思い出せない。
幾らなんだろう、カードで払えるのかな、もし払えなかったら ATM をさがさなきゃ。いや、一時的に彼女に立て替えてもらおうか。

●この店を出たら今日はお別れになる。今後のこともあるからもう少し話し合っておきたいと思った。

「よくここでお食事をされるのですか?」
「ここは月に1~2回かしら、お昼に来るのは久しぶり」
「豪勢ですね」
「いえいえ、そうでもなくってよ。あなたからみて私がどのように映っているかは知りませんが、こうみえて、かなりリーズナブルな女だと自分では思っていますわ」

●またまた「リーズナブル」が出た。今さら意味を聞けない。
彼女は続けた。「時間がないときにはひとりでお茶漬けサラサラで昼食を済ませることもありましてよ」
「えっ、お茶漬けですか?サブちゃんがコマーシャルやってる永谷園のアレですよね、僕もよくやります」
「う~ん、サブちゃんって方は存じ上げませんが、フランスから父の部下が送って下さる燻製肉をご飯にのせて、お茶でほぐしながらいただくのが父の好物で、私もそれが好きになってしまいましたわ、ホホホホホ・・・」
玉を転がすような笑い方とはこのことで、これが最初で最後の笑い声だった。

●ウエイターが「本日はありがとうございました」と伝票をもってきた。小学生のとき、先生からもらった通知表を机の下にかくしながら、そっと開くようなドキドキした気持ちで金額をみると、2万6千なにがしと書いてある。案の定、予算オーバーだ。
「このカードは使えますか?」と VISAカードを差し出す私。
「はい、ご利用になれます」とウエイター。私が気になるのは与信のほうなのだが。

●手取りの給料が 12万円のときの 2万6千円だから、一回のランチで月収の 22%使ったことになる。

会話もとぎれ、なかば呆然としていたらウエイターがやってきた。
「こちらにサインをお願いします」
助かった、カードは使えるようだ。

●外へ出た。娑婆の空気がうまい。

「じゃあ私は買い物をしたいからこのあたりで失礼するわ。今日の御礼と今後については、私の方から A インターナショナルに手紙を出しておきますから。お元気で、さようなら」

どうしてA インターナショナル経由で食事の御礼をするのだろう、今いえばいいのに。

●さて、何の因果でこんな体験談を話すことになったのか。

最近ある夕食会でこのお話をしたところ、「武沢先生、話を盛りすぎでしょ、いくらなんでも出来すぎですよ。初対面でいきなり高級フレンチへさそってご馳走させる女性なんていませんよ」と信じない。

「君は、事実は小説より奇なりというのを知らんのか!」と声を強めたが、嘘みたいな本当の話はたくさんある。
そのものズバリ、『嘘みたいな本当の話』という本も読んだことがあるが、今日のこの話も脚色皆無の100%実話だ。

●「で、武沢先生、オチはどうなったんですか。その女性がひょっとして奥様?」
幸か不幸か答えは「ノン」だ。

●一週間後、A インターナショナルを経由して断りが入った。
「その理由」という欄をみたら、「価値観が違う」にチェックが入っていた。
ふざけるな、という気持ちもあったが、妙にホッとしたことを憶えている。

リーズナブルという言葉には「割安」「お値打ち」という意味もあるが、本来は、「理にかなった」「納得のいく」という意味である。
彼女の行動はとてもリーズナブルとはいえないが、私にその言葉を最初に教えてくれたという意味で、「リーズナブルな女」と記憶されることになった。