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現状維持の社長

名前は架空のものですが、物語は実話です。

愛知県大府市で鍛造金型をつくっている泡口製作所は、創業して半世紀になる老舗企業だ。いまの泡口 賢社長(あわぐち けん、75)で二代目である。毎年正月休みあけの初出社の日に、85名の社員を食堂に集めて泡口社長が年頭所感を発表するのがならわしになっていた。長年書道を学んでこられた泡口社長は、年度方針を四字熟語にして発表する。

私が泡口製作所に入ったのは昭和49年のことだった。初めて聞いた年頭所感は昭和50年の「現状維持」だった。経済環境が厳しくなっており、自動車部品の仕事も減っているという。だから現状維持でも大変なのだと力説された。それを聞いて、厳しい年に社会人になったのだな、と私は思った。

翌昭和51年の年度方針も「現状維持」だった。「あれ、去年と一緒だ」と思ったが自動車部品の市場が相変わらず厳しいので現状維持できるだけでも立派なものである、と泡口社長は力説された。お正月だし、できれば夢のあるお話しをうかがいたかったのに少々落胆する思いをした。

翌昭和52年も「現状維持」だった。さすがに「ウソだろう」と思った。他の四字熟語をご存知ないはずはない。よほどこの熟語がお好きなのだろう。だが私は「現状維持」なんかより、現状を打破したかった。私の担当はラジアルボール盤であり、入社以来三年連続ボール盤。機械操作とドリルの研ぎ方には精通していた。「穴あけとタップ切りといえば武沢だ」と社内の評価も得ていた。だが個人的には旋盤もフライス盤もプラノミラーも放電加工機も扱ってみたい。営業も設計もやってみたい。なのに今年も「現状維持」ということはボール盤生活がまた続くのかと思い、たまらなくなった。

翌昭和53年の年度方針として「現状維持」の文字を見たとき、私は頭が真っ白になった。墨痕あざやかなその文字は達筆ではあった。真っ白になった私の頭は次に「ぜったいちがう」と思いはじめた。

泡口社長がいつものように現状維持の大切さを説いているとき、最後列にいた私は手を挙げていた。

「なんだね、武沢君」
「え」という感じで85人が一斉に私をふり返った。社長の念頭所感を聞いているときに発言を求めた社員はひとりもいない。「こいつ、何を言いだすのだ?」という顔を皆がしていた。椅子から立ち上がるとき、何を言うのか自分でも決めていなかったが、あきらかに今から何かが動きだすと思った。

だが、経営もビジネスも知らない20代前半の若者が言えることは知れていた。

「社長、お話しの途中にすみません。私は入社して4年目になりますが毎年同じ内容の方針をうかがっています。現状維持が大切なことは分かるのですが、できれば個人的には現状を打破したいと思っています。ボール盤だけでなく他の機械も操作してみたいですし、営業も設計もやってみたいです。なのに自分は今年もボール盤なのかと思うと、あまりやる気がわいてきません」

案の定というべきか、社長は老練だった。私をたしなめるようにこう言った。「武沢君、かけなさい。今はあなたの希望を聞く時間じゃない。私が経営の方針を述べる時間だよ。君個人の人事の希望があるのなら、いつでも工場長を通して私に言ってきなさい。異動の際に考慮するから」

「わかりました」と着席した。だが、内心では全然分かっていなかった。次の日曜日、本屋に行った。店主に教えてもらい辞表の書き方が載った書籍を買ってきた。皮肉なことに、それが私が買った最初のビジネス書だった。

次の日から辞表を内ポケットに入れて仕事をするようになった。だがタイミングが来ないまま春がきた。定期人事異動で私に新しい辞令が出た。「営業部への配属を命ずる」と書いてあった。

4トン半のトラックに金型を積んで名古屋の鍛造工場まで配達する生活がはじまった。営業とは名ばかりで、実際にはトラックの運転手だった。掛布選手がオールスターで三打席連続ホームランを打ったとき、トラックのラジオでそれを聞いた。アナウンサーは絶叫していたが、私は今の生活をいつ変えるべきか悩んでいた。