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続・ある中国人の物語

<昨日の続き>

●身体が大きくてハンサムで車の運転が得意。それ以外の点ではあまりパッとしないと周囲に思われていた張敏(ちょう びん、仮名)さんは、北京生まれの北京育ち。

28歳で幼なじみの梅(メイ)さんとめでたく結婚した。
彼女が働いていた日本の沖縄で二人が新婚生活をはじめたのは1990年の春のこと。

●ある日、張さんが那覇の図書館で日本語を勉強していたら、中国人男性に話しかけられた。二人はすぐに親しくなり、パチンコ屋に入った。
これが張さんにとって初めてのパチンコだったのだが、とんでもないビギナーズ・ラックが待ち受けていた。
333番台に座って打ち始めたら、すぐに「333」の大当たり。結局、閉店まで数時間も玉が出続けた。

●それをきっかけに、パチンコで生活する方法を研究しはじめる張さん。もちろん、新妻には内緒だ。

不正な手段を使ってパチンコ店を荒らしているグループもあるらしいが、張さんはあくまで真っ当なやり方で勝てる方法を追究した。
パチンコ店通いがはじまった。梅さんには絶対見つからないよう、午前中は図書館で日本語の勉強をし、その日覚えた単語や文法を夕食のときに報告するようにした。パチンコ店にはきっかり正午に入った。

●やがて張さんの研究成果がではじめた。

もともと、コツコツしたことや手先を要求されることが性に合っていたのかもしれない。ほぼ毎日数万円以上は勝つようになった。パチンコ店からマークされるような存在にもなっていった。

●パチンコの原理やコンピュータのアルゴリズムを調べ上げ、わずかな釘の違いを読みとる眼力を養い、一日中パチンコ台の前に座りつづける体力と気力を養った。目を酷使するので目薬は最高級品をおごった。

●1年経ったころ、張さんは那覇市内のすべてのパチンコ店から出入り禁止を受けるすご腕パチプロになった。当時の張さんの月収は平均すると100万円程度、多いときは200万円になることもあった。やむなく浦添や豊見城、中城、北谷、糸満と活動エリアを広げていった。

●いつしか梅さんもご主人の行いをしぶしぶ認めていた。そんな生活が何年か続き、貯まりに貯まったお金はついに2,000万円を超えた。
張さんは北京にいる友人に自分の武勇伝を話して聞かせた。すると、一ヶ月もしないうちにその友人から儲け話が舞い込んだ。

●友人によれば、北京の国際空港と中心街とを結ぶための幹線道路ができることになった。いまは市の郊外で汚い露天商の集まりになっている一角の土地が売りに出ている。道路が開通すれば、一等地に変身する可能性があるという。そこが2,000万円ほどで売りにでている。

「北京出身者しか買えない。お前、金があるのなら買ってみないか?俺が取り次いでやる」と言う。

●梅さんに相談したら反対された。だが、とにかく現地を見に行くことにした二人。

案内してくれたのは市のお役人だった。もちろん友人もそこにいた。
土地を視察し終えた張さんと梅さんは暗い気分に浸ることになる。なぜなら、広大な土地にはちがいないが、こんなにへんぴで薄汚い場所が一等地になるなんてとても信じられなかったからだ。

●「あなた、やめましょうよ」と梅さん。張さんもやめようと思ったが、もう一度書類をよく見たら、土地の地番が書いてあった。

それには、「北京市豊台区○○○万源南里3-33番」とある。

●「3-33」、それは張さんのラッキーナンバーだった。
ただし北京でそれが通用するかどうかは分からなかったが、今の自分にはツキがある。勢いがある。しかもラッキーナンバーだ。
今の勢いをもっと大きなものにするには、北京という街の勢いを利用しない手はない。

張さんは考えを変えた。

「梅さん、ここを買わせてくれないか」

●結局、その土地は一ヶ月間も売りに出ていたが、北京中をさがしてもここを欲しがったのは張さんだけだった。

その二年後、ついに道路は開通した。2,000万円で買ったその土地は、すでに八倍にはね上がっていた。しかもその土地にレストランやホテル、オフィスビルを建てたいという希望者が殺到し、家賃収入も膨大な金額にふくれあがることになった。

●張さんを運転手として雇っていた中華料理店の店主も出店希望者の一人としてあらわれた。予期せぬ再会にふたりとも驚いた。もちろん、恩義がある。相場の半額の家賃で店主に貸した。

●張さん夫妻は沖縄を引き払い、北京に引っ越して不動産会社をつくった。社名は奥さんと張さんの名前を一文字ずつ入れて「梅張不動産」(仮名)とした。

●実は。ここからが張さんと奥さんの快進撃の始まりなのだが、そこからの詳細は割愛する。
会社設立から10数年たつ。今では総資産300億円を超えるディベロッパー「梅張グループ」の総帥として張さん夫妻は多忙を極め、北京でも滅多に会えない経営者の一人になっている。

●「梅さんと沖縄が私を助けてくれた」と張さん。

日本のパチンコで雪だるまの芯をこしらえ、北京の土地がそれを大きく膨らませてくれた。日本で目の当たりにしたバブル崩壊を懸念し、「梅張グループ」は資産を北京以外の都市にも分散したり、不動産ビジネス以外の分野にも進出してちょっとしたコングロマリットを形成しつつある。

一瞬のチャンスをつかむ。これもひとつのチャイナドリームだ。
経営者としての手腕が真に問われるのは50歳になる来年からだろう。

(人名や地名以外は実話です)