●本を読むことは学問や見識を広めるうえで大いに結構だが、弊害もある。それは人間を策士にし、小者にするおそれがあることだ。読書によってかしこくなることの副作用ともいえよう。大いなるバカ者は読書人からは育ちにくい。
●そういう点で、あえて一年に一冊程度しか本を読まないというA社長(女性)を私は尊敬している。
そんな彼女と最近、カフェでお会いした。先に彼女が待っていて下さったが、なんと本を読んでおられるではないか。
●「おや、めずらしいですね」と表紙をのぞいてみたら、『大人の流儀』とある。伊集院静氏のエッセイで、妻・夏目雅子さんのことにも言及している話題の本である。
●「テレビで評判なので、読みはじめました」とAさん。
「何がおもしろいのですか?ちょっとだけ失礼します」とその場で拾い読みさせていただいた。
「妻と死別した日のこと」、「愛する人との別れ」などのコラムは、思わず読み入ってしまった。
●夏目雅子さんとの出会いから始まり、スターダムをのし上がっていく彼女。闘病生活と突然のように世を去る、そのとき氏がどのようにかかわってきたのかが淡々と描かれている。
●夏目ファンの私だけでなく、伊集院ファンにとっても胸がキュンとする場面である。こんなエッセイは氏にしか書けないし、しかも感情の抑揚をおさえて書いてあるだけに、こちらも素直に読める。
「なるほど、売れるワケがわかりました」と本をお返しした。
●ところが、それに比べて「大人の流儀」として書いてあるコラムの多くは中味が乏しかったように思う。もうちょっと大人らしい世界を見せてほしいものだと思った。たとえば、
・・世の節約や廉価品ブームを受けて
「世のお父さんの飲むビールまで節約じゃおかしい。大人の男が仕事の後にやる一杯をケチってはダメだ。それに何でも安いのがいいという発想も愚かだ。物には適正な値段、つまり価値がある。安いものは結果として物の価値をこわすことになる」
・・旅について
「旅は旅することでしか見えないものが大半である」
・・若さについて
「若いということは打算ができない点に魅力がある。大人たちが笑うことでも命懸けで進んでいく方が、人生は案外と充実している気がする」
・・教育について
「ゆとり教育では子規は生まれなかった」
「スポーツは敗れることで学ぶことが勝者の何倍もある」
いずれも当たり前すぎないだろうか。
●もともと「週刊現代」への連載コラムを本にしたものだけに、本全体の主張に一貫性がないのは承知しているが、もうすこし個性ある主張がほしい。
●この手の本を時々買う私は、Aさんとのミーティングを終えてオフィスの本棚を調べてみた。案の定でてきた。
『男の作法』(池波正太郎)である。
こちらは池波の口述本なので、語り口でできている。伊集院の抑えた文章とはちがって、「そんなことをするから、せっかくの味を駄目にしてしまうんだ」とか、「ああいうのを馬鹿の骨頂というんだよ」と歯に衣着せぬ表現が痛快のエッセイである。
●伊集院の”流儀”と、池波の”作法”。
決定的な違いがひとつある。それは「食べ物」をどう扱うかである。
それこそ水と油ほど両者の主張は異なる。
伊集院は、「食べ物の話題はどう書いてみたところで、いやしさがでる」として取り扱わない。一切書かないのだ。
池波は真逆である。何をどこでどうやって食べるか、それこそが大人と子供を分ける境界線である、とでも言うかのように食べ物の話題が多い。
●私たちは洋食マナーを教わる機会は多いが、寿司屋や天ぷら屋での作法は聞く機会がすくない。
ましてや、おいしいすき焼きの作り方をことこまかに教えてくれる大人などほとんどいない。
ビールをおいしく飲むためには、注ぎ方にもこだわりがあるのだが、この本を読むまで誰にも教えられてことがない。
そんな食に関するうんちくの世界が『男の作法』(池波)にはたくさんある。
この二冊、単純に比較できるものではないが、あなたが大人や男女の作法・流儀を書くときには、どちらのスタイルになるだろうか?
★『男の作法』(池波 正太郎)http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2970
★『大人の流儀』(伊集院 静)http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2971