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酒場にて

●かなり以前のこと、仕事を終えて繁華街に出かけた。ほろ酔い気分になってトイレで用を足していると、私の横に浴衣姿の大柄な人が来た。あきらかにビンつけ油の香りがする。相撲取りのようだ。
さりげなく顔を見上げると、当時まだ現役だった横綱・千代の富士関だった。

●思わず、「あっ、千代の富士さんですね」話しかけた。
いま思えば野暮だった。一瞬だけ間があって、「いえ、違います」と、やっぱり千代の富士関の声である。

「うそ言っちゃダメですよ、千代の富士さんでしょ」と言うわけにもいかず、次の言葉がでないまま微妙な空気がしばらくつづき、去っていった。

●あとから店内を見わたしてみたら、かなり近くのボックス席で豪快に飲んでいた横綱。
その時学んだことは、酒場のトイレでは気安く人に話しかけてはならないということだった。

●あれから何年かたち、リーマンショック直後のことである。ほぼ同じことが名古屋でおきた。今度は立場が逆だった。

あるバーの男性トイレにいたら、「武沢さんですね」と中年男性に声をかけられたのだ。千代の富士みたく、「いえ、違います」と言おうとしたが、どうせすぐに分かること。「そうです!」と素直に返した。

●すると彼は思わぬことを言った。

「もしご迷惑でなければ一杯ごちそうさせていただきたいのですが」という。
なるほど驚いた。そういう話しかけられ方をすると悪い気分にはならない。

「じゃあ一杯だけ」と了解した。
なんと彼は赤ワインを一本手に持ち、こちらの席へやってきた。上等そうなワインをいただきながら私は内心で、「そうか、千代の富士関にも “ご迷惑でなければ一杯”と声をかけ、瓶ビールを10本ほどボックスに届けていたらサインのひとつもくれた可能性がある」などと考えていた。

●赤ワインの主は、玩具部品を製造している会社の社長だった。

「がんばれ社長!」を長年読んでいて、最近はFacebookでも私の画像をチェックしているそうで、トイレですぐに分かったという。
しばし談笑したのち、彼がこんなことを聞いてきた。

「私は物づくりの会社の二代目だが、武沢さんからみて製造業の未来をどう思うか?」という。

●「突然ですねぇ。それに何ですか、その大上段に構えたテーマは。そんな一般論の話題より、逆にこちらが聞きたい。おたくの現状と未来はどうなんですか」

「あ、痛~」と彼。それこそが大問題のようである。

氏いわく、目先の業績確保に汲々とする日々である。経営目標だとか、将来への夢を語る以前の問題で立ちどまっている。次のボーナスが無事に払えるかどうか。年が越せるかどうか。そんな心配が消えないのだという。

●「だったらこんなところで飲んでないで、家に帰ってサッサと寝なさいよ。そして明日の朝から経営計画作りに入ればよい」

「武沢さん、お言葉ではありますが、私は遊び人ではない。業界では世話人もやって論客だとも言われている。たまにはこうして飲みに出ることもあるが、せいぜい月に1~2回程度。何とかして業界を引っ張ろう、製造業を元気にしたいとがんばっている。だが、打開策がみえないから困っている。フットワークの良い一部の会社はすでに海外に拠点をつくって業績を伸ばしているが、海外進出だけが打開策だとは思いたくない。どうしたらよいのか・・・。どうなんですか、武沢さん」

●気の毒に、完全に自家撞着におちいっている。

酔いが回っているのかもしれないが、話がむちゃくちゃだ。最初は業績が悪いとなげき、つぎには業界を引っ張りたいと言い、ついには日本の製造業を元気にしたいと言いだす。

●いま問題なのは、我社なのか、業界なのか、製造業全体なのか。

そして問題の本質は、自社の業績確保なのか、業界の元気なのか、海外進出を含めた戦略問題なのか。

全部をごちゃ混ぜにして話すので会話にならない。これは話し方の問題だけならまだよいが、頭のなかもそうなっているとしたら、きっと混乱するだろうなと思った。

●これはコミットメントの混乱である。まずは、自分自身、何の役割から果たしていくべきかを再確認しよう。

私なら、まず個人としての役割をきっちり果たすことに専念する。身のまわりを律することからはじめ、自分自身が納得できる仕事の仕方や時間の使い方をする。

ついで、会社のリーダーとしての役割を果たす。メンバーを鼓舞し、勝つこと(業績や資金を黒字状態にする)や、勝ちぐせをつけ、勢いをつくりだすことに注力する。

そうした実績を背景に、必要ならば地域や業界、あるいは製造業全体や国や世界へと影響力の範囲を広げていく。それが順当な手順だと思うのだが、混乱すると気持ちが先行してしまい身のまわりのことも手につかなくなる。

■今日の結論は二つ。

1.酒場で初対面の人に声をかけるのはよしたほうが良い。
もし話しかけるときは、一杯ごちそうするぐらいのつもりなら、うまくいくこともある。

2.頭の中が混乱してきたら、自らコミットメントできることから取り組み、徐々に勢いをつくりだそう。