昨日のつづき
4年前青森の社長が見せてくれた道徳教育のような内容の経営計画書。社員10人分のすべてを万年筆で手書きして渡すそうだ。その社長は二宮尊徳を尊敬しておられ、尊徳翁の教えを経営計画書に反映させているという。そのとき尊徳翁にあまり興味がなかった私は、「へぇ、すごいですね」という感想しか口にせず、それよりも手書きで10冊書くことに感心していたものだ。
最近『代表的日本人』を読んだ。内村鑑三が最後の英語著作として書いたものを鈴木範久氏の訳で読んだ。これが実に良い本だった。生半可なビジネス書や小説を読むよりもこれ一冊を何回も読みかえしたほうがためになる。
1.西郷隆盛
2.上杉鷹山
3.二宮尊徳
4.中江藤樹
5.日蓮上人
の5人が紹介されている。内村がこの5人を欧米諸国に紹介するために筆をとったのは日清戦争の始まった1894年のこと。予備知識がまったくない欧米人に向けて書いただけに、今のわたしたちが読んでも新鮮で分かりやすい。しかも訳がすばらしい。岡倉天心の『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』、鈴木大拙の『禅と日本文化』などと共に、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧に紹介した代表的な著作である。
相模の国(今の神奈川県)の名もない村に生まれた尊徳は、16歳で親を亡くし、叔父の世話を受けることになった。なるべく経済的負担をかけたくないと思った尊徳は大人にまじって懸命に野良仕事に精を出した。同時に学問にも目ざめた尊徳は孔子の「大学」を一冊入手し一日の仕事をすべて終えてから本を読んだ。ところが叔父にそれが見つかり、「貴重な油を使うとはなにごとか」と叱られた。
「叔父のお叱りももっともだ」と思って尊徳は勉強をあきらめ、川岸の小さな空き地を開拓してアブラナの種をまいた。一年後には袋一杯の菜種を手にした。それを近くの油屋でしぼってもらい、堂々と勉強を再開した。しかし、叔父はそれすらも叱った。「お前の時間はおれのものだ」と読書をやめさせたのだ。尊徳が一日の重労働が終わったあとでも、むしろ織りやわらじ作りに励ませた。
そうした圧力が尊徳に自由な時間と、自由な経済を渇望させる結果になった。それからというもの、尊徳が勉強できる時間は移動時間だけとなった。叔父の家のために干し草や薪をとりに山への往復で読書した。子どもの頃、校庭にあった二宮尊徳像が薪を背負って読書しているのは、内村が書いたこのエピソードに由来しているのだろう。
寒村のひとりの孤児がつつましい生活をおくりながら少しずつ少しずつ自分の自由を勝ちとっていく。そのためにはわずかな時間を活用するしかなく、わずかな空き地を見つけるしかなく、捨てられているわずかな苗を拾ってきて植えるしかなく、寝る時間をけずって農作物を育てていくしかなく、そうした細かい努力の積み重ねがささやかな報酬となる。
数年後、尊徳は独立した。叔父のもとを去り、住む人がいなくなった両親の家にもどったのだ。だれも手を入れていない土地は荒れ放題だった。だが、尊徳には自分が使える貴重な資源だった。山の斜面も川岸も、道ばたも沼地も、すべて富の資源に見えた。
何年か経った。尊徳の収穫は年々増え、倹約と勤勉を重ねたことから豊かな農民として周囲からも仰がれる人物になっていた。その噂はついに小田原藩主の耳にも入る。自分の領民に有能な若者がいることを知って尊徳を抜擢したいと考えた。しかし江戸時代中期のこと、がんじがらめの封建制度にあっては、いまのようなドラスチックな抜擢人事はできない。そこで一考をめぐらせた藩主は、尊徳に課題を与え、それをクリアさせることで周囲から有無を言わせないようにしようと計った。
それが問題の物井、横田、東沼の三つの村だった。かつては豊かだったこの三村も、過去数代にわたって良き指導者が出ず、ほとんど放置されてきた。土地は恐ろしいほどに荒廃し年貢はピークの三分の一に減っていた。村民の暮らしは貧しく、泥棒や博徒の巣と化した。道徳も退廃し勤勉に働く人もほとんどいなくなっていた。これまで何人かの改革指導者がこの三村にむかったが誰ひとり成果をあげていない。
そこを尊徳に任せようというのである。
もし尊徳がこの三村を復興させることができたら、領内にあるすべての廃村を託せるであろうと領主は考えた。だが、尊徳は領主の依頼を断った。「自分の望みはあくまで自分の家産の再興です」と。だが、三年にわたって口説かれつづけ、ついに尊徳は重い腰をあげた。ここからが私たちがよく知っているたくさんの尊徳エピソードにつながっていく。
尊徳が領主に進言した三つの村の改革計画が奮っている。青森の社長はそれを参考にしたのではなかろうか。
<紙面が尽きたので明日につづく>