●結婚して名古屋に引っ越したばかりのころ、故郷・大垣(岐阜県)にくらべてなんて歩くのが早い街なのかと驚いた。
その後何年かして東京に行ったら、もっと早くてビックリした。
「都会の人はそんなに急いでどうするのだろう?」と疑問に思ったが、初めてニューヨークに行ったとき、街の人みんなが競歩しているようにみえた。事実、彼ら・彼女たちはスーツ姿にジョギングシューズといういでたちで、颯爽と腕をふって通勤していた。
●私はそれをみて合点がいった。
「そうか!都会の人にとっての移動とは、単なる移動ではなくストレッチもかねた有酸素運動なのだ」と。
●中国の大都会もかなり足早になってきてはいるが、私がみるかぎりまだ東京ほどではない。
ただし中国の場合、どこへ行っても人と車が多すぎて足早に歩けないという事情もあるようだが…。
●忙しさに心が奪われ、自分のことしか考えずに肩やカバンがぶつかっても何も言わない。自分が歩道を斜行しているのに、自分優先だと道を譲らない。そうした自己中心的な人が目につく昨今だが、昔はどうだったのだろう。
●江戸時代、地方都市からたくさんの若者が江戸に流入してきたとき、粋な江戸っ子たちは地方の無粋な侍たちを「野暮」とからかった。
自分たちは「粋」であるというのだ。
まず、「野暮」とはなにか?これは武沢流定義である。
・早起きや読書するなどがんばっていることを暗に誇る
・異性にモテることを(さりげなく)吹聴する
・なにかに奉仕していることを大々的にPRする
・いつもおごる(または、いつもおごられる)
・いつもワリカン勝ちする
・美しい街に派手な建物や看板を建てる
・わざわざ「私は法を守っている」と主張する(違法でなければ良いと信じている)
・相手が欲しがってもいないのに、すぐに売ろうとする
・自分が得しそうな人としか会わない(算盤が先に立つ)
これらはいずれも「野暮」である。
●その反対に「粋」とは、さりげなく相手を慮る(おもんぱかる)ことであり、尚かつ、主張をしないことである。それが「粋」なのだが、粋とは、すすんで損をすることでもある。したがって損が嫌いな人は「粋」にはなれないのだ。
●大都会で、どんなに忙しそうに動き回っていても、心まで失わずにさりげなく周囲に配慮できる人をみつけると、思わず「粋だなぁ」と一人つぶやいてしまう。
電車のなかでわがもの顔して座席に腰かける人が多い中、昨日は浅く腰かけて一人でも多くの人が座れるようにしている人をみた。
しかも時々さりげなく周囲に目配りして座席をゆずってあげるべき人がいないかを確認しているようだった。
そんな人を見かけたら、「一緒に仕事をしませんか」と話しかけたくなる。
●『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』(ひすい こたろう&白駒妃登美著、祥伝社)を読んでいたら、「肩ひき」とか「傘かしげ」という言葉がでてきた。
人とすれ違う時、お互いにスッと肩を引くことを「肩ひき」、雨の日に傘のしずくが相手にかからないように外側に傾けるのが「傘かしげ」。
こういった江戸っ子の「粋」な行為が単語になっているのだ。
●乗り合い船が混んできたらこぶし一個分だけ自分の腰を浮かせて座るのが「こぶし腰浮かせ」。
これなど、都心の電車でそのまま使える単語である。
車内アナウンスをこうしよう。
「ただいま、車内が混み合って参りました。おたがいに『こぶし腰浮かせ』でお願いいたします」
●当時世界最大の人口をかかえ、同時に人口密度でも群を抜いていた江戸で、おたがいにきもちよく生きていくには「粋」か「野暮」かは死活問題。
借金するときでも、もしこのお金が返せなかったら野暮の代表として、私を笑いものにして下さって構わないと証文に書いたという。
証文にその一文が書かれれば、それこそ最高のカタ(担保)だと思っていたのだから、貸す方も粋である。
●粋な人が多くなれば、粋な社長、粋な社員、粋な会社、粋な町、粋な政治家、粋な役人、粋な先生、粋な親、粋な生徒が増え、ついには、粋な国家ができあがるだろう。
これからの人生、「粋か野暮か」は大切な座標軸ではなかろうか。
★人生に悩んだら「日本史」に聞こう
→ http://e-comon.co.jp/pv.php?lid=2952