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人生が落語

●今年9月に発売された新しいiPodnanoを買ってきた。
だが、入れた楽曲は古いものばかりで、しかも半分は落語、講談、講演の類である。

“芸のためなら女房もなかす”という「浪花恋しぐれ」が好きだが、あのド阿呆・春団治に負けず劣らずすごいのが5代目古今亭志ん生で、彼の落語もiPodにたくさん入っている。

●志ん生は1890年(明治23年)6月28日生まれ。明治、大正、昭和にまたがって活躍した落語の名人である。

先代の4代目志ん生は、襲名後わずか1年で病没した。この名前は代々早死にしているので、5代目を襲名する際に、周囲から「やめとけ」と言われた。だが5代目は、「何いってやがんでぇ、どうせ死ぬんだから名のらねぇわけにいくけぇ」と襲名を決めた。
その後、昭和48年(83歳)までの長寿を誇り、「志ん生」の名を一気に高めた。長男が金原亭馬生、次男が古今亭志ん朝で、一家全員が名人になった。

●私は志ん生の現役当時をあまり覚えていない。
読者の中にはまったく知らない人もいると思うが、こんなときインターネットは実にありがたい。「YouTube」に志ん生の高座の様子や美空ひばりなどと共演した映画作品がアップされている。

YouTubeで「志ん生」と入れてみよう。
→ http://www.youtube.com/results?search_query=%E5%BF%97%E3%82%93%E7%94%9F&aq=f

●ちなみに落語の昭和三大名人といえば、志ん生、円生、文楽(しんしょう、えんしょう、ぶんらく)である。その一人、円生が志ん生をこう評している。

「道場の試合では勝てますが、野天の試合(真剣勝負)じゃあ勝てやせん」

また、文楽と志ん生についてはこのように比較されている。

「凄く才能ある者が精進することで文楽にはなれても、志ん生にはなれない。人間・志ん生がまるごと出てくる芸だから」

●江戸の下町・神田で生まれ、若い頃から放蕩三昧だった美濃部少年(のちの志ん生)は何をやっても長続きしなかった。
そのころから素人落語の世界で人気者だったようで、明治43年、二十歳のときに正式に落語界に入門した。

●だが落語家になっても飲み・打つ・買うの三道楽は止まらない。借金してまで遊んだあげく、借金取りから逃れるために芸名を次々に変えている。合計17回も名前を変え、昭和14年(49歳)に古今亭志ん生を襲名し、ようやく名前が落ち着いた。

●真打ちになっても収入がすべて道楽に消えていった。家賃が溜まりにたまり、新しい借家を探しては前の借家を夜逃げする繰り返しで、借金を踏みたおすこと数知れず。
結婚し、子どもが生まれても生き方を変えず、夏は暑くて家族が裸同然でくらしていたとか、自分たちは食べたふりをして子どもに食べさせたとか、パンの切れ端を買ってきて皆で分けたというような話が自伝に出てくる。いまなら充分に生活保護を受けられる赤貧ぶりだ。

彼は落語だけでなく、私生活でもこんなおもしろい言葉を残している。

●「あたしは酒は好きだが、そんなにバカ呑みするほうじゃァない。一ぺんに一升五合も呑みゃァ、もう十分です」

●「あたしだって、本当は勲章の一つぐらいかかァにやらなきゃァいけないんですよ」(晩年、自分が勲章をもらったとき)

●「だから、吉原で男になってるんじゃねえか」
(寄席の経営に失敗し、夫人に、「男になるなんて言っておきながらそのザマはなんだね」と言われた悔しまぎれに)

●「頼みもしねぇのに勝手に貸してくれたんじゃねえか。三ヶ月も前のゼニなんぞ、今ごろあるわけがねえ。ナリを見せるんなら呉服屋の旦那でも連れてくりゃあいいんだ。あたしゃ噺家だ。芸を聞いてもらいます」
(真打ち披露のために寄席の大旦那が着物一式をそろえるためにと三ヶ月前に大金を用立ててくれた。だが、すべて呑み代に消えたとき)

●ずっと貧乏神が彼と彼の家族を愛した。
だが、その間も落語の練習だけは欠かさなかった。どんなときでも芸に妥協をせず、練習した。
志ん生のすべてに愛想を尽かしていたりん夫人も、旦那の芸熱心さだけは認め、その一点で結婚生活を維持していたという。

●「いくら道楽三昧したり、底抜けの貧乏したって、落語てぇものを一ときも忘れたこたアない。ひとつことを一生懸命つとめていりゃア、人間いつかは花ア咲くもんだ」と自伝『びんぼう自慢』に書いている。

芸のために女房も家族も借金取りも泣かしてきた。そんな志ん生が還暦をむかえ、ようやく芸の花が開いた。しかも大輪の花だった。
ようやく貧乏神が立ち去り、幸せの女神が訪れた。一気に富と名声がやってきたのだ。

<明日につづく>