●タクシーの乗務員と話していると、人生の縮図を見るおもいがする。
態度のわるさに腹立たしくなることもあれば、「この人の人生はいつからこうなったのだろう」と気の毒に思うこともある。すばらしい接客に感心させられることもしばしばある。
時には、人生論のようなものを聞かされ、その内容の奥深さに身を乗り出して聞いてしまうこともある。
●今朝もそんなタクシーに乗った。
行き先を告げ、本を読もうとしたのだが、窓が全開で風が冷たい。
「すいませんが、窓をしめてもらえませんか」とお願いした。
「あ、気づきまんで。こちとりゃ、根っからの暑がりでやんして」と江戸弁をつかう。
“へぇ、めずらしい”、読書をやめて会話を続けたくなった。
●運転手のUさんは、東京都出身の73歳。
都内の高校を卒業したあと、母の実家がある名古屋にやって来た。そのまま名古屋の飲料メーカーに勤めはじめたのが18歳のときである。
持ち前の元気さ・明るさでお客にかわいがられ、自社製品を大手スーパーに納入することに成功した。それがきっかけで会社はみるみる成長し、売上げは10倍以上になった。「社長表彰」を何度もらったことだろう。
●60歳になるまでUさんは営業一本でやってきた。定年になる前年、会社から慰留された。
「U君、あと5年働いてくれないか。給料はいままで通りで、ボーナスは半額になる。どうだろう?」と人事部長に言われた。
「そうなんですか、ありがたい話なんですが、ボーナスが半額というのはいったいどういうわけなんで?他の営業マンからみて、私のどこが劣るっておっしゃるんですか?」と聞いてみた。
人事部長は「それが決まりだから」としか言ってくれなかった。
●「まあいいか、この辺で」と、飲料メーカーをきっぱり辞めた。
ある程度の退職金も出ることだし、子供もすでに独立した。もうすぐ年金ももらえる。あとはアルバイトでタクシーにでも乗ろうと考えた。
当然、年収は大幅に減る。小遣いにも不自由するだろう。しかし、一切のしがらみから解放され、妻と二人で残された人生を悠々自適にすごすのもわるくないと心にきめた。
●あれから13年、今年73歳になった。
普通だったらそろそろ弱気なことを考えはじめ、人生の残り時間を意識する年齢なのだろうが、どうにも妙なのである。
たしかに身体は年齢相応に弱ってはきたが、気力の方が一向に衰えないのだ。しかも、外見も全然老けこんでこない。
休日に妻と買い物に行っても、妻はエレベーターだがUさんは階段を歩く。横断歩道をあるいていて青信号が点滅したらすぐに走る。
●「73歳にもなるてぇと、もっと弱るもんだと思ってやしたがね」
私はそんな話を聞かされながら、後部座席からUさんのうしろ姿を改めてみてみた。
頭頂部はすこしだけ薄いが、背筋はシャンと伸びて表情や目もとは実に活き活きしている。
●「これからどうするんです?」とUさんに聞かれた。
あいにく次の角っこが私の目的地だったが、私こそUさんに聞きたかった。
「これからどうするんです?」
鍛えてきた人にとっては、定年してからも人生は長い。