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あえて、自縄自縛

●自分が掲げた言葉に自分で縛られるという生き方をしてみよう。

先日、こんなことがあった。
ある会場で講演した際、来年の目標を記入する用紙を配った。
そして、「個人目標を五つ書いて欲しい」と時間を差し上げたところ、40才代のある社長の手が止まったまま動かない。「どうしました?」と聞いてみたら、まったく予期せぬ言葉が返ってきた。

●「武沢さん、当社の経営理念は『あるがまま』。すべてを受けいれながら自由自在に生きることで千年栄える企業を目指す!というものです。ですから、個人も会社もあるがままに生きたいので、目標を持たないという主義なのです」

●「えっ、目標を持たない主義?あるがままを大切にするのなら、その主義はいったん脇へおいて、今は目標を書いてみませんか?」とお話ししたが彼はついにペンを取らなかった。
そんな主義の会社で働く社員は大変だなと他人事ながら思う。

●そもそも、「あるがまま」なのと「千年栄える企業を目指す」のとでは矛盾していないだろうか。あるがままだったら何も目指さないので、赤字になって倒産するのも「あるがまま」受け入れることになってしまう。それでいいのだろうか。

だから「あるがまま」は、企業が掲げる旗印としては大いに問題があると思うのだが、講演会場なのでそれ以上はなにも申し上げなかった。

●私も個人的には「あるがまま」を説く老荘思想(道教)にあこがれるときがある。世俗から身を引いて、自分が背負っていた荷物をすべておろし、人生に達観したいと思うことがある。

特に、煩悩が多くて困ったときに老子の本を読む。
あれが欲しい、ここへ行きたい、それを食べたい、あれをやりたい、と絶えず何かの煩悩にとりつかれているとき老荘思想に触れると新鮮なのだ。

●老子の説いたこの教えは仏教(とくに禅宗)に近づいたといわれる。

たしかに禅も心身脱落、解脱を説くわけだから自己を忘れ、すべてのものから悟らされる自分になるという点で似ているように思う。

●だが取り扱い上の注意が必要だ。

こうした老荘思想や禅の教えは、経営者にとって危険性もはらんでいるのだ。
我欲を断ち切り瞬間瞬間を生き切れと教えられるので、それを曲解すると、目標も理念もビジョンも煩悩であって、それは不要だと考えてしまう。まるでA社長のように。

●だから、私はまず経営者の方には、孔孟思想(儒教)を学んでほしいと思っている。「論語」や「孟子」あるいは「陽明学」である。
モラルで身をかため、「志」と「狂」を尊重する儒教のほうが経営者の生き様にふさわしいと思うからだ。

●経営者は『あるがまま』ではダメで、その真逆の『かくありたい』と強く思い願うものを持っていなければならない。しかもその思いに不自由さを感じるほど縛られなければならない。

そして、そうした思いを経営計画書に託すのだ。
いろんな内容のものが経営計画書に書かれるが、それらは終始一貫して『かくありたい』の思いを具体化したり細分化したものである。
それでこそ芯がある経営計画になる。

●広辞苑で「自縄自縛」(じじょう じばく)と引けば、”自分の縄で自分を縛る意。自分の心がけや言行によって自分自身が動きがとれなくなり、苦しむこと”とある。良くない意味で使う言葉のようだ。

だが、あえて、自分が掲げた言葉に自分で縛られるという生き方をするのが社長だと私は思うのだがいかがだろうか。

<経営計画発表会については明日>