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鬼が手伝う

●私は毎月、月刊テレビガイドが出たらすぐに買う。
地上波デジタルもBSもCSもすべて一ヶ月分番組が載っていて重宝する。
コンビニで買ってきたら約一時間かけて丹念にページをチェックし、予約すべきものに赤鉛筆で○を付けていく。
それを自宅のテレビの前に置いておき、朝でかける前に録画予約するのが日課だ。出張のときにはまとめて予約しておく。

●お笑い番組や注目のドラマ、スポーツ中継なども録画するが、私がさがしているものは別にある。
それは、NHKスペシャルなどの特集番組。これには掘り出しものが多く、何げなく録画しておいた番組に深く感銘し、影響を与えてくれるということがしばしば起こる。

●記憶に残っているところでは、藤山寛美の単独インタビュー番組や、建築家・安藤忠雄氏の仕事ぶりを追った番組、葛飾北斎の生涯、五木寛之の「百寺巡礼」、NHKアーカイブス「永平寺」などに強いインパクトを受けた。

●そして一昨日もそんな番組があった。
「NHKプレミアム8:巨匠たちの肖像」で『仏を睨む眼:土門 拳』をやっていたのだ。土門のことは詳しく知らなかったが、彼をここまで有名にした理由が初めてわかった。

●土門拳(1909年10月25日 – 1990年9月15日)

病院などで「つちかどさん」と呼ばれるが、「どもん けん」は、れっきとした本名であり、言わずとしれた写真界の巨匠である。
彼は屈指の名文家でもあった。こんな文章を書き残している。

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実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
写真は肉眼を越える。
それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。
そこがおもしろいのである。
写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこがむずかしい。
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●ウィキペディアにはこんな記載もある。

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土門は完全主義者としても知られており、生来の不器用さを逆手に取り、膨大な出費や労力をいとわず、何度も撮影を重ねることによって生まれる予想外の成果を尊んだ。
撮影時の土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けした一件や、1967年に東大寺二月堂のお水取りを取材した際にも、自然光にこだわり、真夜中の撮影にもかかわらず一切人工照明を使わず、度重なる失敗にもめげずに撮影を成功させた逸話などがある。
撮影中は飲まず食わずで弟子にも厳しく、「鬼の土門」と称されるほどの鬼気迫る仕事ぶりであったが、人を惹き付ける魅力があり、多くの後進を育てた。
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●土門の代表作のひとつ『風貌』シリーズでは、撮影したい人物の名前を自宅の襖(ふすま)に毛筆で列記し、それが終わるたびに新しく襖を張り替えたという。今でいえば、襖に目標を書くようなものだ。

●BS放送では、当時のお弟子さんたちが多数登場する。
彼らの多くは、今や押しも押されもしない堂々たるプロカメラマンだが、今でも土門の徹底した鬼の仕事ぶりをなつかしむ。

妥協してはならないし、そもそも妥協するという選択肢がみじんもなかった土門は、こんなセリフを残している。

・・・いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。
計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真が出来る。
ぼくはそれを、鬼が手伝った写真と言っている。
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●写そうとして写した写真は使えない。写った写真が作品だ。私たちの仕事や作品にも鬼が手伝うときがある。

事前の思惑や計算の通りにならない。もし予定通りになったとしても、それは使えない作品だ。
どうみても鬼が手伝ってくれたとしか思えない仕事ができるまで、とことん粘りぬこうではないか。

「鬼が笑う」のは来年のことを言ったときだが、「鬼が手伝う」のは毎日でも歓迎だ。

●この番組を見逃した方も、2009年12月 5日(土) と2009年12月 8日(火)の午後に再放送されるそうなので興味のある方はチェックしてほしい。

★NHK プレミアム8
→ http://cgi4.nhk.or.jp/topepg/xmldef/epg3.cgi?setup=/bs/premium8-tue/main