「どげぇんかせんといかん!」と故郷・宮崎のために立ち上がるのは東国原知事の専売特許ではない。今までにも何人かが立ち上がっている。
宮崎では「とうりょうさん」と呼ぶその人も故郷のために立ち上がった一人だ。
テレビ宮崎が毎夜放送終了前に流す番組「歌謡スポット」に毎日登場し、「大淀川慕情」などを歌う。NHKが「君が代」を流すように、宮崎の夜は「とうりょうさん」でテレビが終わる。
佐藤棟良(さとう むねよし)、名前を音読みして「とうりょうさん」という。彼の職業は演歌歌手ではない。大工でもない。会社の社長だ。
「とうりょうさん」は、まず40代で大阪においてダンボール事業に成功した。千代田紙工業を中核とする旭洋グループの総帥として、日本屈指の紙パルプ商社を一代で築き上げたすご腕経営者だ。
「とうりょうさん」のことを大工の棟梁のように親分肌の人だという人もいる。テレビで演歌を歌うくらいだから、決して内向的な人ではなさそうだ。
だが、別のある人はこんな証言をする。
「とうりょうさんが絶頂期に、一人で市内を歩いている姿を私は何度も見かけた。元々小柄な上に、いつもうつむき加減で歩かれるので、とても大会社のトップのようには見えなかった。普通ならお付きの人がそばにいるか、お抱え運転手がいても良さそうなのに、それも見あたらなかった」
果たしてどれが本当の「とうりょうさん」の実像なのか、私は知るよしもない。
だが、大阪の紙パルプ商社の経営を副社長に任せ、観光事業に打ち込んでいる頃の「とうりょうさん」の発言がここにある。
今から30年前、何もかも順調だったころのインタビュー記事だ。人の恩義や理念を大切にしつつも、非常に強気な経営姿勢がこの当時からも充分にうかがい知れる内容だ。
http://www.db-jiho.jp/alacarte/alacarte.php/30/
今、多くの宮崎県人が「どげぇんかせんといかん!」と思うには理由がある。その理由の一つに「観光客の減少」があげられるだろう。
宮崎はかつて、「観光王国」といわれる時代があった。1960年代後半から1970年代前半にかけて、宮崎は観光ブームに大いに沸いた。
1960年の島津貴子様(昭和天皇次女)の新婚旅行、62年の昭和天皇皇后両陛下のご訪問、65年のNHK連続テレビ小説「たまゆら」(川端康成原作)などの影響が大きかった。
また、当時、”観光宮崎の父”とか”民間知事”などとも呼ばれた宮崎交通社長の岩切章太郎氏が、県内各地の観光施設を整備していったことも観光客獲得に拍車をかけた。
ついに宮崎は新婚旅行のメッカとなった。
74年には全国の新婚カップル105万人のうち37万人(35%)が宮崎を訪れるという空前絶後のクライマックスを迎えることになる。
この当時を知る人にとって、「夢よもういちど!」だし、今の宮崎を「どげぇんかせんといかん!」と思うのも無理はない。
やがて沖縄返還(72年)によって南国リゾートファンは沖縄に向かう。
また、海外旅行ブームの到来で宮崎の新婚旅行客は激減し、長期にわたる低落傾向に入ってしまった。
「もう一度宮崎を観光のメッカに!」
それは官民あげての悲願であった。
こうした現状に対して忸怩(じくじ)たる思いをもちつつも手をこまねいていた「とうりょうさん」。
そんな折り、観光ビジネスの恩師・岩切章太郎氏から「君には郷土愛がないのか」と面罵された。
「とうりょうさん」はついに一大決心をする。「シーガイア」の立ち上げだ。
「宮崎をどげぇんかせんといかん!」
1987年、リゾート法が成立した。宮崎のシーガイアは三重の志摩スペイン村とともに国から第一号指定を受けた。
翌88年12月、「とうりょうさん」のフェニックス国際観光を母体に、宮崎県、宮崎市が各25%の7,500万円、メインバンクの第一勧銀、宮崎交通なども出資して設立されたのがフェニックスリゾート株式会社である。いわゆる第三セクター方式だ。
シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と、地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。
まさしく官民あげて観光宮崎再生の切札として計画されたのが「フェニックスリゾート シーガイア」だったのだ。
「とうりょうさん」にとって、シーガイアを核に世界に誇れるリゾート施設をつくり、故郷への恩返しをすることがライフワークとなった。
同年であり、盟友でもあった当時の宮崎県知事・松形祐堯や観光宮崎の父・岩切章太郎、それに失敗知らずの「とうりょうさん」の最強の三人がタッグを組めば、誰もが失敗するはずはないと信じていた。
誰よりもメインバンクの第一勧銀は、成功を強く信じていたはずだ。
<来週につづく>