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ホタルイカ事件

「社員が大事か、食べ物が大事か」と聞かれたら、誰だって「社員」と答えるだろう。
だが、それは冷静なときの話。感情的になると、食べ物のほうが大事になってしまうときがあるし、ヒートアップすると、悲喜こもごもの人間ドラマが生まれる。

こんなドラマ、いかが。

・・・

「僕だってホタルイカ、好きだよ!」と社長の伊吹三郎(43)は大声で反論した。

ある夏の朝、
一週間ぶりに出社した母の伊吹加代会長(69)が給湯室の冷蔵庫を開けたとたん、腐臭が漂った。
冷凍庫が付いていない旧型の冷蔵庫から出てきたのは、富山の友人が贈ってくれた生ホタルイカだった。

どうやら一週間以上も冷蔵庫内に放置してあったようで、すべて傷んでいた。
母の加代は三郎を叱った。

「どうしてあんた、生ものを放っておくの。もったないことしなさんなっ!」

それに対し「僕だってホタルイカ、好きだよ!」と激しく反論したのだ。

どうして冷蔵庫に生モノが放置?

どうやら犯人は新人アルバイトの花子(25)のようだ。オフィスに誰もいないとき、彼女が宅配便を受け取って冷蔵庫にしまいこんだ。

それを社長にメモしようと思っているときに、電話が鳴り続け、ホタルイカのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

「僕だってホタルイカ、好きだよ!」と興奮気味に言いながら、社長の三郎は、オフィス内にいる数人のスタッフをにらみ回した。

皆、目線を落として仕事の手を止めている。

花子が、「あ、あの、すみませんでした。私です」と言い出そうとしたその瞬間、

「すいませんでした。僕が受け取り、忘れていました」と名乗り出た男がいる。
総務主任の荒嶋圭二(28)だ。

「あんたかね」と加代会長。「腐っちゃったじゃないか」と三郎社長。
「まことに申し訳ありません」と荒嶋が詫びつづけるが、相当極上のホタルイカだったようで簡単には収拾がつなかない。

このとき、私(26)は現場にいた。

部下として荒嶋主任を尊敬していたのは、こうした気骨ある態度だった。私はうすうす、荒嶋が誰かをかばっていることに気づいていた。
本当に荒嶋がやったのなら、もっと早く名乗り出ているはずだ。

それにひきかえ、荒嶋の正面席に座っている総務部長の原岡(61)は、上司の太鼓持ちだった。

本来なら総務部長として荒嶋をかばうか、自らの管理責任を詫びても良さそうなものだが、このとき、信じられない発言をした。

「荒嶋君、詫びて済む問題じゃないでしょうよ。君の責任なのだから、今から会長と社長のために、同じものを入手してきてお詫び申し上げなさい。富山県だろうが北朝鮮だろうが、本気になればまったく同じものがさがしだせるはずだ!」

「わかりました、探して参ります。出先から逐一ご報告いたします」

と、荒嶋が部屋を飛び出ようとしたとき、「そこまでの必要はない」と三郎社長が止めた。

「いいかげんにしなさい」と怒鳴る加代会長。私の横の席では、花子がすすり泣いている。

それは、真夏の朝の悪夢だった。

今から思えば、「たかがホタルイカ」だ。

だが、このときの現場は、「されどホタルイカ」だった。
いや、「ホタルイカこそ最高」という一瞬だったのかも知れない。

こんな修羅場こそ、人としての本当の「志」や「哲学」や「美学」、「器」といったものが浮かび上がる。

私は今でも荒嶋と仲が良く、彼の挙式のときには司会の大役まで引き受けたことを覚えている。

もちろん、新郎・荒嶋の横には、新婦・花子がいた。

修羅場も悪くない。

ホタルイカ http://www.zukan-bouz.com/nanntai/tutuika/hotaruika.html