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熟す

経営計画書をつくり、発表したのだけれどうまくいかない。中身の問題だろうか、それとも発表したあとのやり方の問題だろうか、いや、そもそも経営計画書など我社に必要なのだろうか?

というような質問や相談を受ける。

そういえば、昔
「経営計画書づくりに関するあなたの指導法が悪いんや」とうまくいかない社長から名指しで批判されたこともあった。

「今の時代は変化のスピードが早いので計画作りしている間に状況が
変わっていく」と、もっともらしいIT社長もいた。

時代が変わろうがスピードが早くなろうが、経営者としての決意や夢、志がなくては企業経営者とはいえない。一人でそれをやるのならまだしも、人を採用し、その仲間と目的に向かおうというのなら、連判状がいるではないか。
その連判状が世にいう経営計画とか、経営方針書とか、経営指針書である。

まずは発起人であるあなたが設立趣旨と理念、ビジョンを明らかにしてほしいのだ。

志といえば、私の中では真っ先に吉田松陰さんが、次いで河井継之助さんが思い浮かぶ。
彼らが今なお私たちをリードするのは、「志」があったからではない。
志に生きたからだと思う。

「立志」という言葉があるが、志を立てることは簡単だ。夢を語ることも誰だってできるだろう。
大切なことは、志に生きることであり、それには「熟」すことが肝要なのだ。

昨年12月27日、新潟県長岡市に「河井継之助記念館」がオープンした。
これまで福島県の只見町塩沢地区に同名の記念館があったが、自宅跡地に出来たというので先週、さっそく行ってみた。

河井継之助記念館
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/nagaoka3/bunka/tsuginosukekinenkan.html

司馬遼太郎の小説『峠』の主人公として日本中にファンをもつ河井継之助。平日の午後だというのに小さい記念館の中は人が絶えることがない。新築ということで、建材のにおいが濃くのこるなか、継之助の手紙や遺品の数々を見ているうちにあっという間に三時間ほど過ごしてしまった。

ここに来て分かったことが幾つかある。『峠』で司馬遼太郎が書かなかった河井像が浮かび上がる。

その1.河井は勉強熱心だった

『峠』によれば、河井は江戸の古賀塾に学んだものの、どちらかというと不良学生であった部分を強調して書いているが、むしろ苦学生であったようだ。河井は他の塾生と同じように行動するのを好まなかっただけで、向学心は誰よりも強かったはずだ。
その証拠に塾生が寝静まってから「これだ!」と決めた本を何冊も筆写している。

その2.河井は吉田松陰からも学んでいた

その筆写本の中に吉田松陰の著作として名高い『孔孟余話』が入っている。小説『峠』の中では、吉田松陰の愛弟子の吉田稔麿(よしだ としまろ)と東海道で会話する場面があるが、実際には、松陰と継之助はもう少し濃厚な関係があったのかもしれない。

彫るように書く、文字が立ってくるほどに書く、それが河井流であったらしい。記念館でみた直筆の筆写本は、一文字一文字を彫刻刀で彫り刻むようにして書いてある。わずか一文字といえどもゆるがせにしないという気迫で書き写しているのだ。

今とは違ってこの時代は、書物が簡単に買える時代ではなかった。
書き写すことは当時の教養人のごく一般的な学習法だったのだが、それでも河井の特徴は、『峠』に出てくる次のひとことで察することができよう。

・・・
私は気に入った書物しか読まない。そういう書物があれば何度も読む。
会心のところに至れば百度も読む、と、そういうふうなことを、継之助はひくい声でいった。
(松陰先生に似ている)と、稔麿はおもった。
・・・

さて、今日の言葉でご紹介した松陰の言葉を味わってみよう。

「吉田松陰一日一言」(致知出版社)によれば、次のような訳があてられている。

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今、人々が学んでいる四書五経は、孔子、孟子が説いた教えを記したものである。それなのに、善の善なる境地に達することができないのは、「熟」という一字を欠いているからである。「熟」とは、口で読み、読んで熟さないなら、思索、つまり物事のすじみちを立てて深く心で考え、思索しても熟さないならば行動する。行動して、また、思索し、思索してまた読む。本当にこのように努力すれば、「熟」して善の善なる境地に達することは疑いないことである。
・・・
<あすにつづく>