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金策日記

自分一人が食べてゆくには困らない。家族を養うことにも困らない。
伴侶は働きに出る必要もない。
いや、そんな状態はとっくの昔に卒業し、何人かの社員を養うことだってできる。それどころか、自分も家族も社員も、各々が思う存分の活動をする費用にもまったく困らない。
・・・
と、そんな状態はいつになったら作れるのだろう。

嘆いてはいけない。

あの坂本竜馬だって生涯ずっとお金に困っていたという話を聞いたことがおありだろうか?
暗殺される直前まで、15両(約75万円)の金を友人に無心するほど金がなかったという記録もある。

竜馬は姉に宛てた手紙で「男が一年間暮らしていくには、どうしても六十両必要」と書いている。
一両の価値は時代によって変化するが、幕末はおおむね五万円程度だろう。土佐藩から支給される海援隊士の給料が月五両なので、それで男は生活費トントンということだ。

維新回天の原動力となるほどの働きをした坂本竜馬だが、ずっとお金には苦労していたとは意外だ。
彼が一声かければ、豪商や諸藩の殿様からいくらでも金が集められたように思えるが、それは幻想のようだ。

新刊書で『龍馬の金策日記』(竹下倫一著、祥伝社新書)という本がある。
脱藩浪士の身分でありながら、いったいどのようにしてあのような東奔西走の志士活動が可能だったのか?特に資金面のことが気になっていた方にはおすすめの本だ。

これを読むと、大変興味深い事実が幾つか浮かび上がってくる。

『竜馬がゆく』で司馬遼太郎が描いた竜馬とはまったく別の、現実的な彼の側面が見えてくるのだ。

いわく、

・脱藩時に竜馬が持参していた金は20~30両(100万円~150万円)。
かき集めた金とはいえ、せいぜい半年の生活費だ。しかも案の定、脱藩四ヶ月後、竜馬は大坂でかなり生活に困窮しているし、飲まず喰わずの生活をしていた時期もある。

・江戸時代後期は、刀が財産価値をもつようになっていた。実際、竜馬が持っていた刀も20~30両程度の価値があったとされ、それが質草になったらしい。彼が刀の柄を売ってしまったという記録も残っている。

・脱藩して一年近くたち、江戸で勝海舟に弟子入りしてからようやく食う心配がなくなったが、それもつかの間だった。

・勝の海軍塾設立費用のうち、竜馬ら3名で50両をネコババした。
それが発覚して「貸付金」で処理されたが、結局返していない。

・新撰組の元になる「浪士隊」の最初の隊士候補メンバー12名に、竜馬の名前もあった。江戸デビュー当時の竜馬は剣術で名を馳せていただけに、竜馬が新撰組の局長になりうる可能性もあった。
さすれば、維新はなかった?

・何をするにしても、まず概算費用を計算し、その調達方法も考えるという発想法は当時の武士には珍しい。竜馬はそうした発想法を、勝海舟から学んだようだ。勝海舟自身、若いころ師から貴重なオランダ語辞書を借りてきて必死に二冊筆写し、一冊を売って30両得ている。

・今から思えば商売ベタの竜馬。
亀山社中創立一年で65億円程度の武器取り引きを成立させているのに、斡旋手数料をまったく取っていない。せめて3%ほども取っていれば、2億円もの自己資金になったのに・・・。

結果論だが、後になって亀山社中は困窮し身売りする。

だが、こんなことで竜馬の値打ちが下がるわけではない。

それどころか、人を魅了してやまない人間力があったからこそ、資金的バックボーンが脆弱でも大業が果たせたのではなかろうか。
それを暗示させるエピソードを二つほど『龍馬の金策日記』から拾ってみた。
<紙面が尽きたので明日につづく>
龍馬の金策日記
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