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模倣と独創

芸事などで、新弟子が基礎を学び、成長し、名人になっていくプロセスを、「守 → 破 → 離」の三段階で語ることがある。
特に「守」の段階は、建物の基礎にあたる部分として一番重要だろう。
徹底的に基礎を学び、練習する段階だ。ある意味、物まねに徹する時期でもある。

そこで武沢仮説・・「独創は物まねから始まる」

物まねがうまい人とは、それだけ観察力が高い証拠であり、上手にお手本の物まねができる器用さがある人だ。
事実、役者や作家だって一流どころは皆、物まね上手が多い。

ダスティン・ホフマンがかつてこう語った。
「ハンフリーボガードにあこがれ、ボガードを真似、ボガードを演じ続けるうちに、気づいてみたらダスティン・ホフマンになっていた。」

シェークスピアだってそうだ。『オセロー』も『ヴェニスの商人』も『ハムレット』も、元になる民話や物語を上手に使いこなし、世界の人に影響を与える作品に仕上げた。
あの『リア王』だって元の話は、「レア王とその三人娘、ゴネリル、レーガン、コーデラの実録年代記」だ。また、その『リア王』を下敷きして作られた黒沢映画が『乱』だという。

古典から生まれた文学作品も少なくない。
井原西鶴の「好色一代男」は『源氏物語』のパロディだという。芥川龍之介の「鼻」や「芋粥」も『今昔物語』などが下地になっている。

「発明する方法は一つしかない。それは模倣することだ」とアランが語るよういん、私たちは何かを模倣することに臆病であってはならない。

模倣したいような会社、
模倣したいような経営者、
模倣したいような売り方、
模倣したいような・・・

模倣すべきものを見つけてくる能力は立派な才能であり、実際それを模倣し、元のもの以上に仕上げることはすでに独創なのである。