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志をまもる工夫

ある講演会で経営理念について語った。質疑応答で手があがり、次のような質問を受けたことがある。

「経営理念の大切さについては重々承知しているつもりですが、いざ作ってみても、会社の内にも外にも何も変化は起きません。どうも、我れながら借りものの経営理念を作ってしまったような気がします。何度か作り直してみましたが、理念が力を持つにいたりません。そこで、質問したいのですが、本物の経営理念とにせ物の理念との違いがあれば教えて下さい。出来れば、本物の理念を作りたいと思っているのです。」


「なるほど、理念のことでお困りの経営者は多くおられます。まずお話ししておくべきことは、理念を成文化することに現世ゴリヤクを期待してはならない、ということです。」と前置きし、次のようなことを申し上げた。

経営理念を作る動機が大切である。すぐに業績が伸びるとか、すぐに社内が一致団結し出すとかの即効性は何もない。むしろ、拍子抜けするほどに何も変わらない、ということを理解しておくべきだ。

したがって、経営理念の文書を読んだだけでは本物とまがい物との見極めがつくものではない。問題は理念を作った後である。司馬遼太郎の著作『峠』から次の一節を抜粋したい。

・・・<以下『峠』より抜粋>

志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものはその志の高さをいかにまもりぬくかというところにあり、それをまもりぬく工夫は格別なものではなく、日常茶飯事の自己規律にある、という。箸のあげおろしにも自分の仕方がなければならぬ。物の言いかた、人とのつきあいかた、息の吸い方、息の吐き方、酒ののみ方、あそび方、ふざけ方、すべてがその志をまもるがための工夫によってつらぬかれておらねばならぬ、というのが継之助の考え方であった。

・・・<抜粋おわり>


つまり、ご質問にあったように「いざ作ってみても、会社の内にも外にも何も変化は起きません」とか「理念が力を持つにいたりません」などは、そもそも間違った問題認識であるということ。

正しい課題設定は、「理念を力あるものにする工夫があるかどうか」である、と申し上げた。
そのあたり、司馬遼太郎の表現、「志をまもるがための工夫によってつらぬかれておらねばならぬ」というのが本質をあらわした表現ではなかろうか。