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久坂はいるか?

今日は、「信徒」という存在について考えてみたい。

私たちは、むやみやたらに人の話を信じてはならないと教えられた。いつも理性を見失わず、何かを狂信するようなことは良くない、と教えられた。
ちなみに「狂信」とは、理性を失ったかのように何かを激しく信じることを言う。たしかに特定の個人や何かのアイデアを狂信することは、いろいろな意味で危険がつきまとう。

だが・・・。

・狂信する時も必要だ。
・狂信してくれる人間も必要だ。


私は今でも20代の人生の大半を捧げた会社「O社」で働いている夢を見ることがある。
H社長のもとで仕事をしているのだ。時には総務人事部で、時には商品部で、時には出張に同行している場面もある。1~2ヶ月に一回程度みる。不思議でならない。

退職してから20年、O社は今この世に存在しない。だが今でもH社長率いるO社で働く夢を見るのはなぜだろうか。

司馬遼太郎の言葉にこんなのがある。

・・・
思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒(信徒もまた、思想的体質者だろう)が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。思想が思想になるには、それを神体のようにかつぎあげてわめきまわる物狂いの徒が必要なのであり、松陰の弟子では久坂玄瑞がそういう体質をもっていた。要は、体質なのである。松陰が「久坂こそ自分の後継者」とおもっていたのはその体質をみぬいたからであろう。思想を受容する者は、狂信しなければ思想をうけとめることはできない。
(『世に棲む日日 第二巻』、文春文庫)

・・・

私は狂信することができた。疑いもなくH社長を妄信し、O社の輝かしい未来を信じた。業界を先導し、国民のスポーツライフを豊かにする会社であり、株式公開企業になると信じていた。役員を除けば、社内の誰よりもその達成を信じていたにちがいない。H社長をかつぎ上げる物狂いの徒が私であった。

道半ばにしてこの会社は株式を店頭公開後、3年にして破綻した。だが、倒産もひとつの表現であり、大切なことは事を成したか成さなかったという基準でみると、この会社は「事を成した」。その意味において、O社とH社長は、私にとって尊敬すべき会社なのだ。きっと今でも私の潜在意識にはそれが残っており、夢にでるのだろう。

今思えば、H社長にとっての久坂玄瑞役が私だったのかも知れない。あなたの会社にそうした存在がいるだろうか?そもそも、自らの将来に対して狂信しているだろうか。

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