学問とは、たとえば、「子供が危篤だ!」という知らせを受けたとき、あなたがどう振る舞うかで表れるものだ。また、そうした危機こそ、最高の修業と学問のチャンスなのだ、ということを考えてみよう。
ある長州侍が始めて富士を見たときに詠んだ句がある。『来てみればさほどでもなし富士の山 釈迦も孔子もかくやあるらむ』というものだ。
なんだ大したことないじゃないか、もっとすごいと思ってたのに。きっと、釈迦や孔子が生きていたころに出会ったとしても、こんな気持ちなんじゃないか、という意味だろう。事実よりも幻想のほうがデカイもの。こうした句を詠んで自らの気概を養ったものと思われる。
あらゆる点においてスゴイ会社、スゴイ奴なんてそういるものではない。人間がやることなのだから、個人も企業もみかけはほとんど差がないのだ。
「来てみればさほどでもなし富士の山、マイクロソフトもGEもかくやあるらむ」位の気持ちが大切だ。
だが、名声高き企業や個人と、冴えない企業・個人とが、まったく差がないのかといえばそうでもない。成果という面では歴然とした差が存在する。
差を生む最初の一つは「知と行」の距離の問題だ。
王陽明は『伝習録』のなかで次のように語っている。
・・・「知は行の始め、行は知の成るなり。聖学はただ一箇の功夫。知行は分って両事と作すべからず」・・・
安岡正篤著『伝習録』(明徳出版社)の訳によればこうなる。
「知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの実成であって、それは一つの事である。聖人の学問はただ一つの工夫あるのみで、知ることと行うことを分けて二つの問題としないのである」
会話したり、酒を飲んでいる時はみんな一緒だ。「何だ、自分と何にも変わらないじゃないか」と安心するのではなく、日常の仕事において、知識の実践力に個人差があるということを知っておこう。
あとの一つは、心の処理だろう。
思ったほど成果がでない、顧客や社員とトラブルが起きた、家族に問題が起きた、友人との人間関係が気まずい、体調がすぐれない、
・・・etc.
本業はもちろんのこと、それ以外でも私たちの気持ちをくじく障害物は線路の枕木のように襲いかかってくるものだ。そうした障害をどうとらえるかに個人差がある。
ここでも『伝習録』の安岡師訳をもとに、私が要訳する。
・・・陸という人物が役所の中に仮り住まいしていた時のこと。突然郷里の家から手紙が着いて、「子供が危篤だ」と知らせてきた。彼はひどく心配になって堪えられないほどであった。その時、先生(王陽明)曰く、
「こういう時こそ修業に努力すべきである。もしこの時を逃がしたならば、閑な時の勉学など何の役にも立たないのだ。人はこうした時においてこそ自己を磨き練らねばならぬ。父親が子供を愛するのは自然の至情であるから、今、君が心配に堪えられないのも無理はないが、しかし、そこにもおのずから天理の中和があって、それを過ぎると私意に陥る。こういう場合には、多くの人は心配するのが天理の当然だとして一途に心配するものだが、それはすでに大学にいう「心に憂患があると、心の正常が得られない」の状態になっていることに気づかないのだ。大体、人の情感は、多くは過当になるもので、これに反するものは少ない。もし少しでも感情に走り過ぎると、それは心の本体ではないから、必ずよく調節して中を得なければならない。
・・・
とある。
子供や親の危機だけが障害ではない。ごく普通の一日のなかに潜む「やる気が出ない」「勇気が出ない」「最近マンネリだ」というのも立派な危機だ。そして、それは同時に、修業と学問のチャンスでもある。
「なぜやる気がでないのか」を考え、本屋に向かうのではなく、自らの心を制御し、勇を鼓して、知っていることを実行に移すのである。知っていながらやっていないという自分に気づいているからこそ問題が拡大するのものなのだ。