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我に白帯を

一年前、日本話し方センターの「話し方講座」を受講した際、トレーナーの方が笑い袋を取り出し、受講生にこう告げた。

「皆さん、立ち上がりましょう。そして、この笑い袋の声とあわせて今からいっしょに大笑いしましょう。ウワッハッハッハ!グゥワッハッハッハ」

最初はバカらしく思っていたが、続けるうちに不思議なおかしさがこみ上げ、30秒後には本当に高笑いしている自分がいた。だが、周りをみてみると、何人かの“オトナ”達は、最後まで愉快になれずにいたようだ。

結構、バカになるのも大変なのだ。

私の愛読書のひとつ『達人のサイエンス』(ジョージ・レナード著、日本教文社)は、物事を修得し、「達人」に至るための方法論を提供している。

実は、この“馬鹿になること”がこの名著のむすびなのである。

作者のジョージは、学習の前提条件としての「空」が大切であるとして次のような逸話を紹介する。

・・・
自分の頭のいいのを鼻にかけた男が、自分はもっと賢くなりたいが、どうしたら良いかと禅僧に尋ねた。禅僧はただその利口な男の湯呑みにお茶を入れ続ける。湯呑みからお茶があふれてその利口な男がずぶぬれになっても、禅僧はお茶を注ぐのをやめない。これによって禅僧はその男に、一杯になった湯呑みにはもうそれ以上は何も入らないことを教えたのである。
・・・

つまり、達人は愚者のようでもあると著者は述べているのだ。

会社は経営者の器以上に大きくならないというときの「器」とは何か。それは、湯呑み茶碗の許容量のようなもので、どれだけ注いでもあふれない容積を言うのではないだろうか。

すぐに一杯になってしまう小さな湯呑みしか持ち合わせない人の口ぐせや心構えはこうなっている。

・それは知っている
・それは昔やったことがある
・私のほうがあなたより優れている
・・・etc.

いずれもが、自分を賢者や達人であるかのように見せており、湯呑みからお茶がこぼれているのに気づいていない。

人はある程度の年令に達すると“薹(とう)が立つ”と言われる。薹とは、ふきなどの花茎のことを指し、それが伸びると固くなって食べられなくなることから、盛りの時期を過ぎた人のことを総称してこう表現する。これは、おもに女性の年令についての喩えだが、私は、男女や年令に関係なく、精神的に“薹(とう)が立つ”ことだけは避けねばならないと思う。

自信をもつことは大切だが、同時に謙虚さや空の気持ちを忘れてはならない。ジョージの「達人への道」の最後にある教えが“バカになること”であり、嘉納治五郎の最後の言葉が“われに白帯を”なのである。

空であり、バカである自分を見失わないでいたいものだ。