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聖域

「武沢さんが止まると僕も止まる。」
「えっ、どうしたの?田口さん。」
「日本のメルマガ文化のために、僕らは立ち止まっている訳にはいかない。そうでしょ。」
「そりゃそうだけど、それって『サンクチュアリ』に出てきそうなセリフだね。」
「あっ、ばれました。」

北条と浅見の二人の物語、それがコミック『サンクチュアリー』(小学館刊、原作・史村翔、作画・池上遼一)だ。サンクチュアリーとは、「聖域」のことである。
「人生を変えた100冊の本」をあげろと言われれば、私はこのマンガを入れるに違いない。

幼少時代をカンボジアの難民キャンプで過ごした北条と浅見。祖国日本に戻ってみると、平和ボケして欲に固まった大人たちや、無気力とも思える若者たちの現状に対して、憤りに近い危機感をもつ。そして彼らは、お互いの進路をジャンケンで決める。方や裏の世界(ヤクザ)の北条、方や表の世界(政治)から日本を変えようと立ち上がるのだ。

コミックでは彼らの容姿が実に格好良く描かれているが、随所に出てくる二人のセリフが見逃せない。

ヤクザの総長に「なぜお前はヤクザになったのか」と聞かれた北条は、、「普通の人が30年で出来ることを一日で出来るからですよ」、とさらっと言ってのける。それは口先だけの話でなく、実績を伴っているだけに大物総長でも言葉を失う。

政治改革に命をかけ、文字どおり完全燃焼した浅見は言う。
「夢に殉じなければ巨大な権力には立ちむかえない!」

既存の権力に対して一歩も引かずに立ち向かう二人は、いつも150%ギリギリでの勝負を挑み続ける。敗れることや挫折することは度々。だが、自分のために戦っているのではない。盟友のためだ。休むわけにはゆかない。

「代議士もクソもあるか!オレ一人のサンクチュアリじゃ意味がネェんだ!」(浅見)こうした、人生をともにできる契りを交わす盟友があなたにいるか。

彼らが少年時代に味わった壮絶な飢餓感は、胃袋が空っぽという肉体的な飢えを意味していた。だが、彼らがみた日本の若者は、精神的に飢えているように写ったのだろう。肉体の飢えには空腹という信号があるが、精神の飢えにはそれがない。今の日本の若者にないもの、それは夢をもち、それを実現していく過程で味わうことができる精神的充足感だ、と彼らは見抜いた。

たしかにポルポト時代のカンボジア難民キャンプという特殊な状況での二人の出会い。その原始体験は、極めて特殊ゆえに今の自分とダブらせることは不可能だ。だが、そうした特殊な関係だけが盟友をもつ条件ではない。

一瞬でもよい、どれだけ人に深くかかわったが問われるのだ。今よりも前進できるチャンスはあらゆる瞬間に存在する。その瞬間を共有することができれば、それが原始体験とよべるだろう。

北条と浅見、彼らは自らの生き様を通して、生きていることの意味、生きることとはどういう事か、どうしたら生きているという実感をもてるのか、などを日本人に伝えたかったのだろう。

西郷隆盛は、「金もいらない、地位も名誉もいらない、そんな捨て身の人間ほど恐いものはない」と語っているが、盟友をもつことができればおのずと捨て身になることができるはずだ。自分のためではなく、誰かのためにやっているのだというモティベーションをもった人は強い。太宰治の「走れメロス」も友人のために駆けたではないか。

社長という立場はほかでもなく、企業の内外で盟友を作っていく事である。自分一人の会社経営ではない。誰かのためなのだ。